記者が見たアントニオ猪木さんの激動人生 いつ何時も燃え盛っていた“燃える闘魂”
猪木さんが亡くなられた。最近のお姿を拝見するにつれ、心配はつのるばかりだった。でも猪木さんのことだ。きっと元気になる。きっと何度でも立ち上がってくる。そう信じたい自分がいたが……。
履歴書の趣味の欄に書き込んだ「猪木コールをすること」
猪木さんが亡くなられた。最近のお姿を拝見するにつれ、心配はつのるばかりだった。でも猪木さんのことだ。きっと元気になる。きっと何度でも立ち上がってくる。そう信じたい自分がいたが……。
この喪失感は例えようもない。猪木さんは唯一無二。いつ何時でも「燃える闘魂」アントニオ猪木だった。
人生を狂わされた、いや導かれた人はたくさんいるだろう。恥ずかしながら自分もその一人。履歴書の趣味の欄に「猪木コールをすること」と書き込んだ。そのおかげか、スポーツ新聞社に入社でき、すぐに運動部に配属されプロレスを担当することになった。
40年前、憧れの人に当時、東京・蔵前にあった国技館の支度部屋であいさつ。「お、頑張って。よろしく」と気さくに答えてくれた。その笑顔はファンとしてテレビや新聞、雑誌でみる笑みと全く同じだった。
「仕事にしたら、つまらなくなるんじゃないか」。仲間の忠告は間違っていた。プロレスは面白く、プロレスラーは魅力たっぷり。40年間、いろいろあっても続けられたのは、猪木さんのあのときのスマイルが常に支えてくれたからだ。
取材を始めた当初、「君はネクタイが地味だな。もっと派手にしたらどうだ」という猪木さんのひと言がキッカケで、派手なネクタイを着用するようにもなった。「お! いいじゃないか」と破顔一笑。いつ何時も元気をもらえた。
岡山駅で偶然、出くわし「馬場さん、いますよ」と声を掛けたら、全日本プロレスの会場を訪問してくれた。ハワイのワイキキビーチを10分以上、歩いてリック・フレアーの元に出向き握手してくれた。ロサンゼルスでは天龍源一郎のトレーニングするジムで密談してくれた。
当時は興行戦争など大人の事情で無理な話なのに、お願いしたら「しょうがないな」と笑いながら、付き合ってくれた。
大スターなのに気取りもなく、自分からファンに声をかけるなどサービス精神も旺盛で、本当に気さくな方だった。
田鶴子夫人が亡くなったときに、夕刊紙に追悼記事を書いた。猪木さんも目を通してくれた。猪木さんご本人から電話をいただいた。「ありがとう。妻も喜んでいると思う」と涙声だった。紙面を奥様のお棺に思い出の品々と「一緒に入れたよ」とも。
レスラーとしての猪木さんはまさに二度と出てこないスーパースター。マット史の名勝負特集をすると、猪木さんの試合ばかりが並んでしまう。ドリー・ファンク・ジュニア、ジョニー・バレンタイン、タイガー・ジェット・シン、ジョニー・パワーズ、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン、ビッグバン・ベイダー……あまたの外国人選手に、ストロング・小林、大木金太郎、藤波辰爾、長州力、天龍源一郎など日本人対決も次々と浮かんでくる。
世界中に波紋を呼んだモハメド・アリ、ウィリー・ウイリアムスらとの異種格闘技戦も忘れるわけにはいかない。
リング上の猪木さんは光り輝いていた。たとえ敗れても、復活してくる。猪木さんの“燃える闘魂”はいつ何時も燃え盛っていた。
引退後も国会議員として文化人として、世間の枠組みには収まらない活躍をされた。猪木さんは「アントニオ猪木」であり、誰もかなわない。
爆撃前のイラクの街並みを知っている。人質解放の感動の瞬間に立ち会えた。北朝鮮のメーデースタジアムに20万人近い人たちが整然と入場するシーンを目撃できたのも、猪木さんに同行取材したから。
晩年は「あれ、誰だっけ?」「柴田ですよ、柴田。とうとうボケましたか?」「分かっているよ。フフッ」というやり取りをさせてもらっていた。
田鶴子さんは2019年8月に亡くなっている。本当に仲の良い夫婦は連れ合いが亡くなったら3年ほどで後を追うように旅立つ、というそうだ。
天国では田鶴子さん、力道山さん、馬場さん、ゴッチさんらが出迎えてくれましたか。
激動の……激闘の人生でしたね、リング内でもリング外でも。ゆっくり休んでください。ご冥福をお祈りします。(文中敬称略)