100軒断られた修理引き受ける“車の名医”、ボクシング日本一からの栄光と挫折
事故で大破した車でも修理を引き受ける“車の名医”こと自動車整備士の市村智さんは、大学を中退し父親から工場を継ぐという波瀾万丈の人生を送ってきた。学生時代はボクシングで日本一になった経験もありながら、なぜグローブを置いて板金塗装の道を選んだのか。若かりし頃の葛藤の日々を聞いた。
同期に元世界チャンピオンの鬼塚勝也や川島郭志がいるなか、インターハイで優勝
事故で大破した車でも修理を引き受ける“車の名医”こと自動車整備士の市村智さんは、大学を中退し父親から工場を継ぐという波瀾万丈の人生を送ってきた。学生時代はボクシングで日本一になった経験もありながら、なぜグローブを置いて板金塗装の道を選んだのか。若かりし頃の葛藤の日々を聞いた。
子どもの頃はヤンチャしていて、けんかに明け暮れたり、問題もいろいろと起こしてました。父親が困って相談していた床屋にボクシング協会の理事長も通っていて、それならうちで預かろうかと中3からボクシングを始めることになりました。
選手層の薄い山梨では優勝できたんですが、関東大会の1回戦で反則負けを取られて、その時の指導者が悔し泣きしてるんですよ。「お前なら絶対日本一になれるのに」って。それまでは大人なんか信じられないと思っていたけど、その涙を見て必ず日本一になってやると腹をくくってボクシングに打ち込みました。
高校のときは朝から晩までボクシング漬けで、同期に元世界チャンピオンの鬼塚勝也や川島郭志、1つ上に薬師寺保栄、1つ下に辰吉丈一郎がいるなか、国体に出たりインターハイ優勝もしたんですよ。プロに行く選択肢もあったけど、とりあえずバルセロナ五輪に出ようと東京の大学に進学したんだけど、大学1年の冬に父に病気が見つかってね。
「工場が回らないから、3か月間、電話番だけでもいいから帰ってきてくれ」って。父からは悪い病気じゃないと聞いてたんですが、手術の前日に医者に呼ばれて「悪性のリンパ腫です。長くても余命2~3年」と伝えられました。大学はそのまま一度も戻ることなく中退、父が入院してる病室にポラロイドカメラで撮った修理車両の写真を持って行って、一から技術を教わりました。
10年ほど前には自動車整備の技術大会で“2度目”の日本一に
ボクシングに未練もあったけど、まだ若かったから、そのうちまた時間ができたらやればいいやと思ううちに、結局それっきり。ボクシングにいたころは、試合で日本全国に行く先々で「市村君」と声をかけられていたけれど、この業界に入ってからはその辺の板金屋の兄ちゃんだからね。夜中の2時、3時まで仕事して、気晴らしにコンビニに缶コーヒーを買いに行ったら、身なりを見てか汚れた手を見てか、お釣りを投げ捨てるように返されたり、地元の先輩からは「ちょっとケンカ強いからっていい気になってんじゃねえぞ。人を殴った後は車たたいて金もうけか?」と絡まれたり。職に貴賤はないと言うけれど、世の中そんなにきれいごとじゃなくて、ボクシングの世界の光が強すぎたぶん、やり切れない思いもしました。
それでも、ボクシングでは一生食ってはいけないんですよ。おやじは結局14年闘病して61歳で逝きましたけど、今では、おやじが僕をこの仕事で食っていけるようにするために病気になって、早く一人立ちできるように先に行くぞと亡くなったのかなと思っている。死ぬ少し前に、抗がん剤でもう正気ではなかったのかもしれないけど「お前がいてくれてよかった。俺の人生は幸せだった」と言われて。幼い頃からヤンチャして、仕事を始めた後もむちゃくちゃで、周りからはずっと「親の育て方が悪い」と言われてきた。僕がちゃんとまっとうに生きることで、おやじの育て方は間違ってなんかなかったと証明していきたい。
10年ほど前に、整備の技術大会で日本一になったんですよ。ボクシングをやめてから、やっと2度目の日本一を取れた。自動車整備協同組合の役員をやめるときには、業界の関係者がチャンピオンベルトを作ってくれました。一生かけてこの仕事をやってきて、間違ってなかったのかなと思っています。