「偶然の出会いが生んだ奇跡の4人」 ロックバンド「ZIGGY」の元ドラマーが語るデビュー前夜
「GLORIA」の大ヒットで80年代後半に一躍スターダムに躍り出たロックバンド「ZIGGY」の元メンバーでドラム奏者の大山正篤が、ZIGGY解散後に組んだロックユニット「Shammon」を再始動させ、8月19日に都内でワンマンライブを開催する。ZIGGY脱退後は自身の音楽活動に加えてドラム講師として後進の指導にあたり、2019年に心理カウンセラーの資格を取得し、カウンセラーとしての顔も持つ。そんな異色のミュージシャンが歩んだ波乱の半生を3回にわたって紹介する。1回目は音楽との出会いからZIGGYとしてデビューするまでを振り返ってもらった。
ドラマー大山正篤が振り返るロックな半生
「GLORIA」の大ヒットで80年代後半に一躍スターダムに躍り出たロックバンド「ZIGGY」の元メンバーでドラム奏者の大山正篤が、ZIGGY解散後に組んだロックユニット「Shammon」を再始動させ、8月19日に都内でワンマンライブを開催する。ZIGGY脱退後は自身の音楽活動に加えてドラム講師として後進の指導にあたり、2019年に心理カウンセラーの資格を取得し、カウンセラーとしての顔も持つ。そんな異色のミュージシャンが歩んだ波乱の半生を3回にわたって紹介する。1回目は音楽との出会いからZIGGYとしてデビューするまでを振り返ってもらった。(取材・文=福嶋剛)
よく聞かれるんです。ZIGGYの元メンバーなんだから小さい頃からロックをやっていたんでしょ? って。違うんです。バリバリの吹奏楽出身でガキの頃はクラシックばかり聴いていて、ロックなんかちゃんと聴いたことなかったんです。
北海道の釧路市という田舎で野球少年だった僕は中学校でも野球部に入ろうと思っていたんですが、大の苦手な同級生が先に入部してしまい、そいつと過ごすのが嫌で吹奏楽部に入りました。最初に手に取ったのはトランペット。ところがまためちゃくちゃ上手い奴がいて、そいつには勝てないと思い打楽器に持ち替えました。運命のドラムとの出会いでしたね。
実はその吹奏楽部、北海道でもかなり伝統のある強豪で、僕はいつの間にか部長になっていて今度は楽器を置いて譜面を見ながら指揮者をしていました。うちの学校はこれまで全道大会(=県大会)で銀賞止まりで、僕らは歴代でもっともまとまっていたので、「間違いなく金賞が獲れる!」と周りから太鼓判を押されていて、僕も自信満々で大会に臨みました。ところが信じられないミスが起きてしまい、またもや銀賞止まり。部長としての責任を痛感し、完全に心が折れてしまったんです。
人生最初の挫折を抱えたまま市内の高校に進学しました。もう音楽は嫌だと思い、吹奏楽部の誘いも断り、本が大好きな“文学青年”だったので「小説でも書こうかな?」って思っていたんですが、同級生に「きみは吹奏楽部で有名な学校でドラムを叩いていたんでしょ? バンドやらない?」と誘われたんです。当然きっぱり断ろうとしたそのときでした。「バンドは女の子にモテるんだよ」。あれだけ頑なに断ってきたのに究極の必殺文句に負けてしまいました。不純な動機でバンドを始めることになったんですが、本当にモテたんです(笑)。
ロックなんて全然知らない“文学青年”でしたけど、吹奏楽の経験で楽譜はすらすらと読めたので、高度な演奏もあっという間にできるようになり、気が付いたらほかの高校の名うてのメンバーたちとバンドを組んでいました。それで高校卒業と同時に札幌に出て本格的に活動しようと思っていたところ、ほかの2人が家業を継ぐと言ってバンドを去りました。「だったら僕は東京に行こう」。そう思い、教師だった父親に相談したら大反対。粘りに粘って最後は国立大学に入るならと許可をもらったんですが、ろくに勉強なんてしてなかったから私立の大学しか行くところがなく、バイトで生活費を稼ぎながら通うことになりました。
上京して大学に入り、すぐに音楽サークルの新歓コンパに行きました。周りを見ると「バンドは遊び半分でやってます」みたいな生ぬるいやつらばかりで、中でも一番遊び半分の目をした長髪の先輩が近寄ってきて「お前北海道から出てきてパンクロックが好きなんだって?」って。うっとおしいメタル野郎だなと思っていたら、そいつが戸城憲夫くんだったんです。国立大学なんかに入らなくてよかったですよ(笑)。
「俺、ZIGGYに入るからこのバンド辞めるわ」
当時、戸城くんは鹿鳴館というライブハウスでよく演奏をしていて、アイアン・メイデンみたいなメタルバンドでベースを弾いていたんです。さっそく戸城くんのライブを見に行ったら、最前列のお客の頭を踏みつけながらベースを弾いていて「なんだこのおっさんは? カッコいいじゃん!」て。そしたら戸城くんが僕に「俺はメタルじゃなくてバッドボーイズロックをやりたいんだ」と言ってきて、それで彼と「グラスデッドフリッカーズ(後の「G.D.FLICKERS」)」というバンドを組みました。80年代半ばでしたね。「ハノイ・ロックス」とか「ニューヨークドールズ」、「エアロスミス」みたいなロックンロールバンドで僕だけ髪が短かったんですけど「ま、いっか」みたいな(笑)。アマチュアだったのに新宿ロフトがいつも満杯になるすごい人気でした。
その頃、大半が女の子のお客さんの中で最前列にやたら踊り狂っているエアロスミスのスティーヴン・タイラーにそっくりの兄ちゃんがいて「なんか変なやつがいるよね」ってメンバーと話をしていたんです。そしたらあるとき、その彼が打ち上げに潜り込んできて、いきなり「今度俺たちと対バンやってくれない?」って。そいつが森重樹一くんだったんです。昔からすごくいい奴で、「ZIGGYっていうバンドをやってるんだけどさ」って。彼らの拠点は渋谷のラママというライブハウスで、ロフトが拠点の僕らにとってはアウェーだったんですが、お手並み拝見で戸城くんとリハーサルを見に行きました。
そしたら曲のクオリティーがものすごく高くて「おじさん(=戸城くん)、これって誰のカバー?」って聞いたら「オリジナルだよ!」って。「マジか! おじさん、あいつ歌上手くね?」って続けて聞いたら「ちょっと黙っててよ! 見てるから!」って。今まで見たことのない戸城くんの真剣な表情でしたね。そしたら翌日のバンドのミーティングで戸城くんがひと言「俺、ZIGGYに入るからこのバンド辞めるわ」って。みんな「えーー?」でしたよ。
僕はしばらくほかのバンドをやっていましたが、当時のZIGGYのドラムが抜けたのでかけ持ちでサポートしていたんです。そのうち自分のバンドが音楽性の違いでぶつかってしまい、「じゃあ真面目に髪の毛を伸ばすからZIGGYに入るわ」と言って正式に加入しました。数か月後には松尾宗仁くんも入って、いわゆる黄金期と呼ばれる4人が揃いました。
最初はメンバーが変わったので一瞬人気が落ち込んだんですが、そんなことには目もくれず、むしろ毎日が最高でライブをやるたびに「今日の俺たちイケてるじゃん!」でしたね。実はミュージシャンてこういう根拠のない自信とか調子に乗るってことも大事だったりするんですよ。その勢いでお客さんが倍々に増えていき、渋谷ラママの動員記録を塗り替えて、事務所にも所属してレコード会社からもいくつも声が掛かって。そこからは早かったですね。
ただ僕は大学だけは卒業しようと思ってちゃんと4年間通ったんです。ところが、またもや思いがけないミスを犯してしまい、大事な単位を1つ落として卒業できなかったんです。もう悔しくて悔しくて。「あと1年だけ通わせてくれ」と父親に電話で相談しました。すると「おまえ、楽団の調子が良いんだろ?」と。その頃はすでに雑誌の表紙も飾っていてデビューも間近だったので「そうだよ」と答えたら「もう大学に行かなくてもいいんじゃないのか」と言われたんです。
あんなに厳格だった父親がなんでそんなことを言うのだろうってとても不思議だったんですが、後から知ったことで、僕の卒業を見越して新車を買い替えたらしいんです。それで親が支払える授業料がなくなってしまったんですね。実は買い替えたその車の名前は「グロリア」だったんです。これ本当の話です(笑)。ZIGGYの代表曲「GLORIA」が出る前の数奇な運命ってやつですね。(2回目に続く)
□大山正篤(おおやま・まさのり)1964年、北海道釧路市出身。ドラマー、音楽講師、心理カウンセラー。大学進学とともに上京、戸城憲夫らと「グラスデッドフリッカーズ」(後の「G.D.FLICKERS」)結成。1986年、「ZIGGY」に加入。翌87年デビュー。89年、「GLORIA」がオリコン3位の大ヒット。92年、ZIGGYを脱退。プロデューサー、楽曲提供など活動の幅を広げ、98年、「Sham-on」でふたたびメジャーデビュー。2003年、音楽講師としても活動をはじめる。19年、心理カウンセラーおよび上級心理カウンセラーの資格を取得。22年、「Shammon」再始動。8月19日渋谷「clubasia」でワンマンライブ「Shammon レコ発ワンマンショー in clubasia」を開催。シングルCD「ゆりかご」を24日発売。
「Shammon レコ発ワンマンショー in clubasia」
2022年8月19日 午後6時30分開演
会場:渋谷clubasia