稲川淳二の人生を左右した55歳での選択 前立腺がん、次男の死を乗り越え怪談を続ける理由

30年連続公演となる全国ツアー「稲川淳二の怪談ナイト」が始まった。今年も唯一無二の語り口で全国50公演を回る「怪談家」稲川淳二。いまやYouTubeを通じて若者にも人気で、かつて「元祖リアクション芸人」と呼ばれ、テレビでも大活躍していた頃を知らない世代も会場に足を運ぶ。あらためて稲川が「怪談家」になるきっかけについて、また稲川怪談のこだわりについて語ってもらった。

稲川淳二【写真:山口比佐夫】
稲川淳二【写真:山口比佐夫】

稲川淳二が「怪談家」を選択した理由とは

 30年連続公演となる全国ツアー「稲川淳二の怪談ナイト」が始まった。今年も唯一無二の語り口で全国50公演を回る「怪談家」稲川淳二。いまやYouTubeを通じて若者にも人気で、かつて「元祖リアクション芸人」と呼ばれ、テレビでも大活躍していた頃を知らない世代も会場に足を運ぶ。あらためて稲川が「怪談家」になるきっかけについて、また稲川怪談のこだわりについて語ってもらった。(取材・文=福嶋剛)

 また全国のみなさんとお会いできる楽しみな季節がやってきました。今年で30年目だそうです。あっという間ではありませんが、走り続けた30年でしたね。その間一度も休まずに夢中でやってこれたのは、何より来てくださるお客さんのおかげ。私を舞台に立たせてくれるみなさんのおかげなんです。

 今年で75歳になるんですが70を過ぎたあたりからその時その瞬間という今を大切に生きていきたいと思うようになったんです。20年前に人生の大きな選択をしましてね。振り返ってみるとその選択は間違ってなかったようですね。

 ご存知の方もいるかもしれませんが、1980年代、私はワニに追いかけられたり、トラにかみつかれたり、危険なドッキリを仕掛けられたり、最近は「元祖リアクション芸人」なんて呼ばれることもあるみたいですが、そんな体を張ったタレント活動をしていたんです。一方で怖い話が得意だったものでラジオやテレビで披露したら「話が面白い」と言われ、視聴者の受けがよかったんですね。そしたら事件現場のレポーターや恐怖作品の審査員の仕事なんかも徐々に増えて“怪談にくわしい人”になっていったわけです。

 そうこうしてるうちに、もう亡くなってしまったんだけど私の恩人でレコード会社のディレクターがいましてね。仮にAさんとしましょうか。そのAさんに「稲川さんの怪談話を録音してみませんか?」と声をかけてもらったんです。「それじゃあ“にぎやかし”でやってみましょうか」と87年にカセットテープを発売しました。そしたら32万本の大当たり。オリコン急上昇なんて言われましてAさんと大笑いしたんです。おかしかったのは、テレビ局やラジオ局に行くとスタッフがつかつかとこっちにやってきて「淳ちゃん、買ったよ!」って私にテープを見せてくれるんだけど、なんか違う。おかしいなあと思ってよく見たらみんな海賊盤だったんです(笑)。本物は売り切れちゃったから海賊盤が出回っていたんですよ。

 そんな時代に熱意の塊みたいな当時20代の若者と出会って私を本気にさせてくれたんです。現在の「怪談ナイト」のプロデューサーです。「クラブチッタ川崎でオールナイトのイベントをやりませんか?」と声をかけていただいて、それまでお寺や小さな場所で時々やったことはあるんだけど、わざわざ私の怪談話を大きなライブハウスに聞きにくるのかな?って心配だったんですが、当日開演前に外を覗いてみたらものすごいお客さんの行列だったんです。当時45歳だったんですがそれが記念すべき「怪談ナイト」の1回目でした。次の年もまたオールナイトをやって3年目から地方に行くようになりまして、少しずつ会場を増やしていったんです。

 そうやってタレント活動と並行して怪談ライブを続けていくうちに見に来てくださったお客さんや全国のファンのみなさんから「稲川さんの話に元気をもらいました」とか「今度はうちの近くに来てください」というお手紙をたくさんいただくようになったんです。10年、20年とタレントをやっていても「頑張って」なんていう手紙をもらったことがなかったのにライブをやるたびにたくさんの励ましのお手紙や感想をいただける。なんてすてきな商売なんだって思いましたよね。

 それで「怪談ナイト」が10年目を迎えた55歳の時にタレント活動を辞めて残りの私の人生すべてをこれに懸けようと大きな決断をしたんです。自分がテレビから消えても番組は成立しますし、こういう世界って必ず次の人が出てくるんですよ。でも稲川怪談は私しかできない。そんな“自分しかできない仕事”の魅力をこの10年で知ってしまったんです。これから私がやるべき仕事はこれだと。あと5年たつと60歳。きっとテレビの仕事も減ってくるだろうから、じゃあそのタイミングでライブに力を入れましょうなんていうのはここまで付いてきてくれた仲間やお客さんに対して失礼だと思いました。仕事があるうちに辞めるんだったら自ら人生を選んだことになるじゃないですか。「よし!じゃあ、辞めちゃおう」って。だからタレント活動は嫌になって辞めたんじゃない。やりたいことを1つに絞って人生を懸けたくなったんです。

「私の怪談は誰かの生きた証を描いている」【写真:山口比佐夫】
「私の怪談は誰かの生きた証を描いている」【写真:山口比佐夫】

人の生き死にだけじゃ伝えられない「人の心」を怪談に

 そこで大きな決断をしました。長くやらせていただいたレギュラー番組2本と、実は大きな連続ドラマの話もあったんですが「誠に申し訳ございません」と言って全部の仕事をお断りしたんです。その瞬間、ものすごくスッキリしました。これで堂々と「怪談家」を名乗ってようやく自分の本当にやりたいことができるんだって思いましたね。

 その代わり、怪談家を名乗るからにはそれだけの覚悟も必要でした。もしかしたらこのライブがお客さんにとって人生最後の観覧になる人だっている。そう思ったら大切な時間をくださったお客さんを前にぜったいに手を抜けないし、自分の人生をかけて一生懸命舞台に上がらなきゃいけないという責任感も芽生えました。

 私の怪談は言い伝えや実話だけじゃなく、独自の推理や自分ならではの想像をふくらませたオリジナルの作品なんです。本格的に怪談を仕事にしてから大学の先生や作家さんなど今までにない交流も生まれて、自分の作品にもどんどん肉付けされるようになっていきました。

 スタッフにも恵まれていて、みんな去年よりもお客さんを喜ばせたいと、毎年、美術のセットや照明、音すべてを良いものにしようと長い時間をかけて一生懸命準備してくれるんです。私も負けじとどんどん前に進むもんだからスタッフも大変だと思います。

 30年続けるといろんなことがありました。各地で震災があり多くの人が被災されました。私も怪談ナイト10年目の2012年に前立腺がんの手術を受けましたし、翌年次男が亡くなりました。そして今もコロナ禍でみなさん大変な思いをされている。これは私がいつも思っていることなんですが、人間てなんでもかんでもうまくいったりすることなんてないんですよ。私の周りでもマイナスを背負いながら頑張っている人は意外と活躍できている。

 人は良い意味でそのマイナスから逃げられる生き物なのかもしれませんね。つらいことがあると別のことに一生懸命になるからどんどん前に進むんです。だから余計に頑張れたりするんでしょうね。

 まるで石垣の石を積んでいくように最終的に全部積み終わった時に眺めてみるとちゃんと積み上がっているんですよ。おまけに積み上げた人の個性が形に表れる。むしろつらいことや大変なことがあるからうまく人生の帳尻が合う。そんなふうに思いますね。

 じゃあ私がなぜそんな現実の死を前にして怪談を続けてきたかというと、人は亡くなっても人の心は生き続けると信じているからなんです。私の怪談は誰かの生きた証やその人物の心の中を描いています。肉体が消えてもその人の願いや思いといった心は、ほかの誰かとつながっていく。たとえば戦争で亡くなった多くの方々が伝えたかった2度と戦争を起こしちゃいけないという願い、事故や災害で亡くなった人が残された家族や仲間に伝えたかったであろう感謝のメッセージ。それは人の生き死にだけじゃ伝えられないことなんです。稲川淳二を知らない若い人たちはホラーを語っているおじいちゃんだなんて思っている人もいるかもしれませんが、ホラーとは違いますからね(笑)。

 もしあのとき、タレントを続けるという選択をしていたら、ついつい欲をかいてしまい、いつまでもタレントとして全盛期だった頃を追いかけていたかもしれません。実は60代までは結構過去を振り返っていたんです。ところが70時を過ぎてからまったく過去を振り返らなくなった。年なのかどうなのか分かりませんが(笑)。ようするに今が一番面白くて今が一番大事だって思えるようになったんです。するとギアがバックに入らなくなった。これなんですよ。過去よりも今この瞬間、生きているという実感を味わいたいなって思うようになりました。

 だから最近みなさんに「今年が最後になるかもしれない」ってよく言うんです。で、また次の年に元気な顔で「これが最後の年になるかもしれない」ってね(笑)。そうするとお客さんは稲川淳二の生存確認のために来てくださるんですよ。変な商売じゃないですが、私もそう言いながら声が出る間はずっと続けていける。だからこれからは「稲川淳二の生存確認ライブ」だと思ってもらっても大歓迎ですから。

□稲川淳二(いながわ・じゅんじ)1947年8月21日、東京都渋谷区恵比寿生まれ。桑沢デザイン研究所を経て工業デザイナーとして活動し、96年度には、個人でデザインを手がけた「車どめ」が、当時の通産省選定のグッドデザイン賞を受賞。元祖リアクション芸人と怖い話で茶の間をにぎわせていたが、45歳の年に怪談ライブを始め、その反響の大きさに感銘を受け、残りの人生を怪談家として没頭することを決意。昨今は怪談家としての活動のみならず、障がいのある子の親の見地からバリアフリーや人権がテーマの講演会にも精力的に参加する。

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