誰からも愛された青柳政司館長 思い出す大仁田厚との激闘、獣神サンダ―ライガーとの一番

いつもニコニコと向こうから近づいてきてくれた。「柴田さん、お元気でしたか~?」と握手。年下の私にも敬語で接してくれた。リングを離れれば、笑顔、笑顔だった青柳政司館長が亡くなった。享年65。早すぎる。

重爆キックで大暴れした青柳政司館長【写真:柴田惣一】
重爆キックで大暴れした青柳政司館長【写真:柴田惣一】

1990年にプロレス大賞の新人賞受賞

 いつもニコニコと向こうから近づいてきてくれた。「柴田さん、お元気でしたか~?」と握手。年下の私にも敬語で接してくれた。リングを離れれば、笑顔、笑顔だった青柳政司館長が亡くなった。享年65。早すぎる。

 通夜、葬儀・告別式には多くのプロレスラー、空手家、空手道場の教え子たち、関係者が駆けつけた。その人柄を物語る光景だった。館長の悪口はついぞ聞いたことがない。偉ぶることなく、誠実で優しく、先輩、後輩……誰にでもフラットなスタンスで付き合ってくれた。

 格闘家、ファイターとしてスゴイ人だった。極真会館「第10回オープントーナメント全日本空手道選手権大会」でベスト16に進出し、23歳にして空手道場「誠心会館」を開いた。ちびっ子から大人まで指導。空手界にその名を響かせ、1989年「格闘技の祭典」で大仁田厚と激闘を繰り広げ、プロレス界にも進出する。

 FMWの黎明期に活躍後、新日本プロレスに参戦し、獣神サンダーライガーとの一番で大暴れした。90年にはプロレス大賞の新人賞を獲得。34歳にしての受賞で話題を集めた。

 重い蹴りには定評があった。空手家にしてプロレスラーとしても認知され、反選手会同盟から平成維震軍の一員となり「館長」の名で人気も集めた。

 今でも「館長」といえば「青柳館長」を思い浮かべる人も多い。それだけの実力があり、インパクトを残してきた。

 様々な団体のリングに登場しながら、道場で後進の育成も続けていた。その人脈、お付き合いの広さも納得だ。

リングをはなれれば茶目っ気たっぷりの青柳政司館長だった【写真:柴田惣一】
リングをはなれれば茶目っ気たっぷりの青柳政司館長だった【写真:柴田惣一】

 個性あふれるレスラーたちと親交も深かった館長だが、中でも“虎ハンター”小林邦昭さんとの仲の良さは特筆される。愛知県を拠点としていた館長が上京すると、小林宅に泊まることも多かったという。

 とにかくウマが合ったようで、料理が得意な小林の手料理を楽しんだり、小林さんが館長を大会会場まで車で送り迎えしたり、夜遅くまで語り合ったり、まるで家族というか幼なじみのような2人だった。「館長とは、何でも話せる仲」と何とも嬉しそうな小林だった。

 館長が使う日用品も常備していたという小林宅。親友、朋友、同志、ソウルメイト……本当にビックリするほど仲が良かった。

「昨日の敵は今日の友」という言葉があるが、それはあくまで比喩的な表現で、実際には、敵対していたが手打ちして和解したという感じが多いだろう。だが館長と小林はまさに「昨日の敵は今日の友」がピッタリの2人だった。

「人は亡くなった時に、本当の価値がわかる」と言った人がいる。社会通念上の儀礼としての参列ではなく、参列者に涙があるか、嘆き悲しむ人がいるかでわかる、と。館長とのお別れはみんなが悲しんでいる。お人柄の賜物だろう。

 波乱万丈に駆け抜けた人生だった。どうか、ゆっくり休んで下さい。合掌。

次のページへ (2/2) 【写真】青柳政司館長をプロレス界に導いた大仁田厚との2ショット
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