ハイエース不調、サハラ砂漠での絶望の2週間 TVで放送されなかった過酷すぎる脱出劇

根本純さんのコレクション【写真:ENCOUNT編集部】
根本純さんのコレクション【写真:ENCOUNT編集部】

「世界一すごいラリーがあるらしい」ついにパリダカ参戦

 それで、重いハイエースをマークIIでけん引しながら、2000メーター級のアトラス山脈を横断して、チュニジアまで36時間800キロを走った。ものすごい経験をしましたよね。テレビではさすがにそのときの脱出劇は放送されてないけど、いわゆる砂漠で潜って押したりというのは毎日のようにありましたね。

 サハラ砂漠から帰ってきた俺は、全日本ラリーシリーズを転戦するようになった。おかげさまで順調にやっていたら、81年にPMC・S(プリンス モータリスト クラブ・スポーツ)というスカイラインのクラブみたな有名なクラブがあって、そこの代表の関根基司さんからモンテカルロラリーに誘われたんですよ。「お前ナビやってくれ」と言われたから、「憧れのモンテだから行きます」とすぐ返事したわけ。

 でも、そのとき、ほぼ同時にもう1つのオファーがあった。サハラ縦断でともに苦労した横田紀一郎さんが「世界一すごいラリーがあるらしい。トヨタもスポンサーに乗ってくれそうだから行きたいんだけど、一緒にやってくれないか」と。

 それがパリダカだった。

 モンテカルロは1月22日にスタート。パリダカは1月1日パリスタートで、20日にゴールだった。俺はやっぱりドライバーをやりたい。サポートなのは分かっているけど、車を運転したかった。さすがに2日後にモンテカルロは出られないから、関根さんには「パリダカが終わったら駆け付けて、サポートします」と相談してね。関根さんも「しょうがねえな」と言ってくれて、パリダカ後に合流する計画を立てた。

 そしたら、俺はそのとき婚約していたんだけど、仲間が「純、婚約しているんだから、どうせだったらモンテカルロで結婚式やろうぜ」とか言ってくれてね。今となってはそれもいい思い出なんだけど、パリダカに出たら、当時は3分の1しか完走しないわけ。だから予定通りにいく人も3分の1だけ。でも俺は、何とかボロボロになって完走して、パリに戻ってエナメルの靴を買って、モンテカルロに行ってちゃんと結婚式をやった。

 横田さんには「お前はずうずうしいよな」って言われたけど、まあそんな派手なことをいろいろやってきましたね。

□根本純(ねもと・じゅん)1951年5月25日、神奈川・藤沢市出身。81年、日本人として初めてパリ・ダカールラリーに挑戦。97年まで13回出場し、完走6回、リタイア7回。5大陸55か国200万キロを走破。元文京区議会議員。現在はツーリングイベント「THE銀座RUN」などを主催。秋には「THE清里RUN」を行う。「VAZ☆Club De i」主宰。

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