音楽の授業が苦手だった少年が紅白7回出場を果たすまで 山内惠介が挫折から学んだ歌

NHK紅白歌合戦に7年連続で出場を果たすなど「演歌の貴公子」という愛称で親しまれる歌手の山内惠介が、デビューから22年目を迎えた。「演歌の世界ではこの程度のキャリアなんてまだ青いですから」と控えめに語る彼だが、歌い始めてからずっと大切にしてきた「真心を込めて」という意味がようやく分かってきた20年でもあるという。歌とともに歩んだ山内のこれまでを振り返ってもらった。

インタビューに応じた山内惠介【写真:塩見徹】
インタビューに応じた山内惠介【写真:塩見徹】

音楽の授業が苦手でピアノの伴奏に専念した中学生時代

 NHK紅白歌合戦に7年連続で出場を果たすなど「演歌の貴公子」という愛称で親しまれる歌手の山内惠介が、デビューから22年目を迎えた。「演歌の世界ではこの程度のキャリアなんてまだ青いですから」と控えめに語る彼だが、歌い始めてからずっと大切にしてきた「真心を込めて」という意味がようやく分かってきた20年でもあるという。歌とともに歩んだ山内のこれまでを振り返ってもらった。(取材・構成=福嶋剛)

 2001年4月にデビューして今年で22年目を迎えました。演歌の世界ではキャリア20年はまだ青い……たしかに生まれてから20年と考えると、まだまだ青いですよね(笑)。小さい頃から家で演歌を歌っていたので、小学生になるとどんな歌でも小節(こぶし)をブンブン回しながら歌っていました。演歌を歌えば大人が振り向き、3人兄弟の末っ子で1番上の兄とはひと回りも違うので、いつも大人に混じって物怖じせず、とにかくおしゃべりな子でした。今でもオフの山内惠介はおしゃべりなんですよ(笑)。

 でも音楽の授業は苦手でした。どんな歌でも小節を回してしまうので「山内くん、みんなと歌を合わせて!」ってよく先生に注意されましたよ。全校生徒で校歌を歌うと1人だけ小節が回っているからそりゃあ目立ちますよね(笑)。僕の歌は完全に個人種目で、団体種目じゃないんだって気付いてみんなで歌うのが嫌になり、中学生になると3年間、ピアノの伴奏に回りました。小さい頃から人と競い合うことも嫌いでコンクールとか大会も苦手でした。たまたま叔父が応募したカラオケ大会でスカウトされたことがきっかけでデビューできたので、カラオケ大会の常連ではなかったんです。

 プロを目指して17歳で上京し、恩師の水森英夫先生に発声練習や歌唱だけでなく、どれだけ歌のことを考えながら生きていけるかといったプロとしての大切な心構えを学びました。先生から学んだことをお客さんに披露して拍手の鳴りの大小で自分の芸を磨かせていただく、そんな繰り返しでした。

 ところがそこからなかなか結果が出ない大きな壁にぶち当たってしまい、スタッフの人たちともコミュニケーションが上手く取れなくなり、殻を閉ざしてしまった貝のように無口で暗い毎日を送っていました。まだ高校3年生の子どもでしたから、きっと東京に出てきてから反抗期になったのかもしれませんね(笑)。当時のスタッフのみなさんには、いろいろとご迷惑を掛けてしまいました。

 歌をやめたいと考えたこともありましたが、自分から歌を取ってしまったら何も残らなくなるって分かっていましたし、そのタイミングで大好きだった祖母が亡くなり、悲しい時こそ歌わなくちゃいけないと気持ちが切り替わり、それから北海道でラジオ番組がはじまって、恩師から「しゃべりというのは歌とのギャップだから明るく面白く振り切って話しなさい」と教えられ、もともとおしゃべりだった自分がようやく戻ってきたんです。

 僕は人と競い合うのが苦手な分、自分にだけは負けたくないという気持ちが強くて、振り返ると昨日の自分に負けたくないという気持ちの積み重ねで前に進んできたような気がします。きっとあの頃の僕は誰かを追い抜こうと思ってやっていたから前に進めなかったんです。自分のことを大切にできなければ相手のことを大切になんかできませんし、それは真心じゃないと気が付きました。

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