パッション屋良、教員免許取得も芸人に挑戦 夢は“東京再進出”「20年後にブレーク」
YouTubeチャンネル「パッション屋良の情熱プロテイン」ではショートネタも投稿
卒業後は芸人を目指していた幼なじみと「サミット75」というコンビを結成。4年ほど活動し、マセキ芸能社へ所属するまでにこぎつけた。しかし、徐々に2人の信頼関係は破綻。「どうせスベるなら自分1人でスベったほうがいい。責任を全部背負えるようになったほうがいい」という覚悟のもと“パッション屋良”というピン芸人で活動することを決断した。
ムキムキ体型の男がパツパツのポロシャツを着用しステージ上で「んー!」の叫び声とともに胸を強打。舞台に出始めの頃は「くっそスベっていた」と告白するが、「自分の中では絶対おもしろいという根拠のない自信があった」と明かす。
その自信は形となり、およそ半年後に見事テレビ番組のオーディションに合格。テレ朝の深夜バラエティー「虎の門」が始めてのテレビ出演となった。その後も「笑いの金メダル」(テレビ朝日)などショートネタブームに乗っかり大ブレーク。一時は月収数百万円を稼ぐなど売れっ子の仲間入りを果たした。
「びっくりしましたね。僕もビビりだったのでこんなのずっと続くわけない、と思いそこまで派手な生活はしませんでした。でも、人並みにぜいたくなことはしてみました。六本木に飲みに行って1回で20万円払ったりしたこともありましたね。最初はそれなりにかっこつけたりしていて、嫁ともよくその頃の話をしますね。『昔はダウン買うのに20万円ぐらいキャッシュでパッと出してたのにね』、みたいな(笑)。そういう“THE・芸能人”みたいな生活も多少はさせてもらいましたね」
しかし、その生活も長くは続かなかった。徐々に仕事が減っていくなかで、2011年には沖縄へと拠点を移した。きっかけは2人目の子どもが生まれたことだった。
「そこまでテレビのお仕事もいただけなくなってきたので、妻も働いたほうがいいかもねと話をしていました。09年ごろから家族だけ名護に戻って、僕は単身赴任で2年ほどやっていました。でも、どっちつかずになっちゃうんですよね。東京での仕事量が多かったわけでもなく、これは絞らなきゃマズイよなと、思ったときに、必然的に家族がいるところを優先する選択をしました」
沖縄に戻ってからは沖縄でテレビに出演するなど、タレント活動を継続。そのかたわらで、パーソナルジム経営もスタートさせた。現在では「8:2」の割合でジム経営を中心に動いているが、“東京再進出”の夢は諦めていない。
「ありがたいことにこんな僕でも年に1、2回ぐらいはテレビ出演のお話などがくるので、応えられることは精一杯やっています。今はとりあえずそういう形でやらせてもらいつつ、自分の事業の環境が整ったら、もうちょっと芸能の方にも踏み出せるのかなと思っています。60、70歳のおじいちゃんになって、胸をたたいているほうが逆に面白いんじゃないかなと思ったりもしています。あと20年後ぐらいにまたブレークするんじゃないかなって(笑)。僕のことを知らない人が見たら、1回はまねしたりしてくれることも多いネタなので。そういった意味では(再ブレーク)の可能性はあるのかなと思っています」
現在は仕事の合間を縫って、YouTube「パッション屋良の情熱プロテイン」でショートネタも投稿。当時と変わらぬネタを披露し高評価も得ている。
「また東京とかにも芸人として遊びに行けるようなったらいいですね」
20年後のテレビで「んー!」の叫び声を聞ける日を心待ちにしたい。
□パッション屋良(本名:屋良朝苗)1976年7月23日、沖縄・名護出身。2000年にコンビ「サミット75」を結成。04年からピン芸人・パッション屋良としての活動をスタートし、06年頃に大ブレークを果たした。現在は地元・沖縄を拠点に「Passion’s Fitness PPP」を経営。YouTube「パッション屋良の情熱プロテイン」ではネタ動画も公開している。