CAから気象予報士、コメンテーター・学者と驚きの転身…河合薫さんの生きざまは「まさかの連続」
全日空のCAから気象予報士となってテレビ朝日系「ニュースステーション」で活躍し、東大大学院医学系研究科の博士課程を修了後、現在、健康社会学者として活躍する河合薫さん56歳。キャリアを着実にステップアップしてきたように見える。その生きざまや素顔も探った。
「ニュースステーション」でも活躍 東大大学院を経て健康社会学者に
全日空のCAから気象予報士となってテレビ朝日系「ニュースステーション」で活躍し、東大大学院医学系研究科の博士課程を修了後、現在、健康社会学者として活躍する河合薫さん56歳。キャリアを着実にステップアップしてきたように見える。その生きざまや素顔も探った。(取材・文=中野由喜)
「キャリア意識とか、あまりない大学生でした。CAになったのも帰国子女だったこともあり、英語を使って世界をまたにかける仕事をしたいという、大ざっぱな理由です。当時、全日空が国際線に就航し、学生の人気が高まっていました。だったら、全日空の国際線の客室乗務員になろう、みたいな感じだったんです。予定では3年くらい飛んだら辞めて、30前に結婚して、子ども産んで、なんて思っていました」
なぜキャリアを積み重ねていく流れになったのか。
「働くうちに仕事が面白くなっちゃたんですよね。当時の全日空の国際線は、JALに追いつけ追い越せ! って、社員が一丸になって頑張っていました。国内線から移行してきた優秀な先輩たちに、サービスとは何かとか、一人の女性としての振る舞い方とか、とにかくいろいろ教えていただいているうちに、仕事って面白い! って思うようになったんです。それで、もっと自分の能力を発揮したいと勘違いしちゃいました(笑)。このままCAをやっている自分と、何かは分からないけど他のことをやっている自分と、どっちが魅力的かと28歳の私は自問。自分がどうなっているか分からない方が魅力的に思えたのです。次の仕事が決まっていないのに退職しました。ただ、漠然と専門的な何かを持って自分の言葉で伝える仕事をしたいとは思っていました」
なぜ気象予報士だったのか。
「人の出会いがすべてです。帰国子女、元CAなんてだけで、28歳の小娘が自分の言葉なんか持ってるわけがない。その当たり前に気づいたのは、世間の冷たい風に吹かれてからです。CAを辞めなきゃよかったと何度も思った。でも、それを言葉にしてしまった途端に自分が崩れ去りそうで、絶対に言えなかった。同期から、明日はロスだよ、なんて電話がくると、うらやましさと不安で感情がめちゃくちゃでした。そんな時、新聞で気象予報士という資格ができてアメリカのウェザーキャスターのような仕事ができると知りました。私、アラバマ州に住んでいたことがあり、そこではウェザーキャスターが大活躍し、子どもに大人気の仕事。これだったら自分の言葉が持てるかもしれない、と思って、あれこれ探して、なんとか民間の気象会社に入社しました。そこで元気象庁のベテランの予報官の人たちに、徹底的にお天気のことを教わり、一方で、小学生向けの図鑑でお天気を学ぶことから始めて。お天気が分かるとおニューの靴をぬらさなくなった。それが楽しくて。天気にのめり込みました。気象予報士の試験を受け、合格発表の日に『ニュースステーション』の人に声をかけられました。第1回の試験でしたのでメディアが大勢取材に来ていたのです」
気象予報の仕事からなぜ大学院に。
「晴れると気分がいいとか、雨が降ると古傷が痛むとか、天気と環境、人の心との関係を研究する生気象学を独学で学んでいました。30歳半ばを過ぎ、天気だけで自分の心が決まるわけではないと当たり前のことに気付きました。もっと自分の言葉を持ちたいと思うようになった先が大学院進学。アカデミアの世界に入ったら、そこは宝石箱のように人生に役立つことがたくさんあった。それが面白くて、修士だけでは研究者の卵にもなれないと、博士課程まで進んで今に至っています」