「石にかじりついてでもこの場所に雇用を」 11年前、奇跡を起こした被災企業の挑戦

東日本大震災の発生から11日で11年を迎える。徐々に震災の記憶が風化していくなか、岩手・陸前高田の工場が被災した総合ユニホームアパレルメーカー「ボンマックス」では、当時の記録をドキュメンタリービデオとして再現保存。震災後も陸前高田で雇用創出の取り組みを行うなど、“あの日”を忘れないための地道な活動を続けている。11年前のあの日、被災地の工場に何が起こったのか。そして復興の歩みは。外川雄一社長の証言とともに振り返る。

「ボンマックス」外川雄一社長の証言とともに当時を振り返った【写真:ボンマックス提供】
「ボンマックス」外川雄一社長の証言とともに当時を振り返った【写真:ボンマックス提供】

津波で壊滅的な被害を受けた陸前高田で、工場と物流拠点が被災

 東日本大震災の発生から11日で11年を迎える。徐々に震災の記憶が風化していくなか、岩手・陸前高田の工場が被災した総合ユニホームアパレルメーカー「ボンマックス」では、当時の記録をドキュメンタリービデオとして再現保存。震災後も陸前高田で雇用創出の取り組みを行うなど、“あの日”を忘れないための地道な活動を続けている。11年前のあの日、被災地の工場に何が起こったのか。そして復興の歩みは。外川雄一社長の証言とともに振り返る。(取材・文=佐藤佑輔)

 2011年3月11日、午後2時46分。東北地方を震源とするマグニチュード9.0の地震が日本列島を襲った。東京・日本橋の本社で会議中だった外川社長ら役員数人は、揺れが収まるのを待つと、すぐに陸前高田にある子会社の東北縫製(現ボンマックスアパレル)工場に電話。揺れの直後は電話が通じ、従業員全員の無事が確認できたものの、それきり工場とは音信不通に。その後、テレビでは津波が陸前高田の街を飲み込む映像が繰り返し流された。

「東北が震源と聞いてすぐ、陸前高田の工場と従業員が頭に浮かびました。工場と物流センターは高台にあったので、『きっと大丈夫……』とは信じつつも、気が気ではなかった。地震発生が金曜で、土曜は丸1日電話がつながらず、日曜の正午になってようやく従業員から本社に電話があった。『全員無事です』と。まずはホッとしましたね」

 従業員に人的被害はなかったものの、会社が経営上の危機にあることは明らかだった。オフィス向け制服などの職域ユニホームを中心に扱う同社は、当時東北工場と隣接する物流センターに約50万点、総額15億円以上の在庫を抱えていた。その多くは銀行や航空業界などの新入社員用制服だった。新年度が始まる4月1日より前にそれらの商品を納品しなければ、大損害が出ることになる。リミットは約2週間後に迫っていた。

「もし物流センターが水をかぶっていたらうちは終わり、製品が無事でも配送ができなかったらそこで終わり。地震から3日後の3月14日には梧桐純一専務が山形経由で陸前高田に入り、幸い物流センターとそこに続く道路は無事だと分かった。注文伝票を出せる設備は東北、東京、名古屋の3か所のみ。関越自動車道は無事だったので、新潟まで運べれば何とか届けられるかもしれないが、商品を運び出す手段がない。引っ越しシーズンで抑えられたレンタカーはたった2台。八方塞がりでした」

 頭を抱えた外川社長の耳に、テレビのニュースが流れ込んできた。「秋田では死者は0人の模様です」。秋田のユニホーム販売代理店「辻兵商事」の辻良之社長は、自動車販売会社「秋田いすゞ」の社長を兼任していた。大学で1学年先輩の辻社長ならトラック業者を紹介してもらえるかもしれない。外川社長はすがるような思いで電話をかけた。

「たとえトラックが手配できても、運送会社が見つからなければどうしようもない。運送会社が見つかっても、燃料がなければどうしようもない。最初の電話から1時間もしないうちに、辻社長から折り返しがありました。『燃料の自社タンクを持つ運送会社と話をつけた。10トントラック何台でも出してやるぞ! 何台必要なんだ!』と。涙が出ました」

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