中西学「今に見とけよ!」現役続行不可能からの大逆転劇 復活までの過酷な日々を語った

「野人」の愛称で親しまれてきた新日本プロレスの中西学が2月22日に後楽園ホールで現役生活に幕を下ろす。デビューから27年間、トップレスラーとして新日本プロレスの一時代を築いた。そこでENCOUNTでは、2回に渡ってレスラー中西学を紐解くロング・インタビューをお届けする。前回は、引退の心境やこれまでの思い出を中心に語ってもらったが、後編となる今回は、引退のきっかけとなったケガとの壮絶な戦い、そして最後に後輩レスラーたちに伝えたいことを語った。

壮絶なリハビリの日々を語った中西選手【写真:山口比佐夫】
壮絶なリハビリの日々を語った中西選手【写真:山口比佐夫】

中西学 引退直前ロングインタビュー(後編)

「野人」の愛称で親しまれてきた新日本プロレスの中西学が2月22日に後楽園ホールで現役生活に幕を下ろす。デビューから27年間、トップレスラーとして新日本プロレスの一時代を築いた。そこでENCOUNTでは、2回に渡ってレスラー中西学を紐解くロング・インタビューをお届けする。前回は、引退の心境やこれまでの思い出を中心に語ってもらったが、後編となる今回は、引退のきっかけとなったケガとの壮絶な戦い、そして最後に後輩レスラーたちに伝えたいことを語った。

入院中は3つの病院を転々と…

 皆さんにね、「まだまだ戦える」「辞めないで」って言われますけど、やっぱりケガしてしもうたのは、自己管理できへんかった。鍛錬を怠ったっちゅうかね。一番せなあかんのに、プロレスを舐めてしまってたんです。そのしっぺ返しをくらったというかね。再起不能になるかもしれんかったけど、それでも色んな人の力で何とか復活できたんやから、もうひと踏ん張りせなアカンかったんです。けど、そっからがね…その勢いで行きたかったけど、なかなか自分の戦いができへんかった。

 日常生活に影響が出てもおかしくないケガでしたね。それでも復帰しようと思ったのは、もうプロレスしかないからね。それしかやってこなかったし、普通の生活に戻って、また別の仕事をやるんやって気持ちにはなれへんかったんです。レスラーとしてリングに戻るんやと、そんな気持ちで(リハビリを)やってなかったら、プロレス復帰もなかったし。もう先生が「何考えてるんや?」と、親や周りにも「もうそんな危ないことは…」と言われても、「いやいや、言いたい気持ちはわかるけど、来年の今頃はもうリング上がってるから!」って、ずっと言ってきました。

 入院、リハビリ中は京都、岐阜、東京と3つの病院を渡り歩きました。尿瓶が横に置いて合って、ずっとしょんべんの管がつながっててね、見舞いに来てくれはる人に、そんなところを見られるのはちょっと嫌やなって思ってました。頭打って入院してるから、来てくれはった人も、ずっと変な風になっとんのとちゃうかなって、まともに自分のことを見てられへんと思ったかもしれませんね。あまりにも可哀想だって、みんな半泣きでしたね。でも「いまはこんな感じやけど見とけよ!」って全く弱気なことは言わななかったです。

リハビリ中も第3世代の絆は深かった【写真:山口比佐夫】
リハビリ中も第3世代の絆は深かった【写真:山口比佐夫】

仲間の後押し

 入院中は選手、関係者のみんなが、代わる代わる来てくれました。入院して筋肉が落ちてたんで、結構げっそり痩せたように見えたと思いますよ。天山選手も、小島選手も、永田選手も、3人とも来てくれて「とにかく寿司食うてくれ」って、寿司や焼き鳥持ってきてくれたり、「たんぱく質を摂って筋肉をつけてくれ」「とにかく食べて何とかその細い体を戻してくれ」って。他にも「何か必要なものはないか」「リハビリで使えるものがあったら持ってきてやるぞ」と言ってくれて。でも俺の姿を見て、「これは無理やわ」ってきっとみんな思ってたんちゃうかなって。まあ、…あれですね、自分の前では普通にしてましたけど、病室を出たあと、「信じられへん」て、涙ぐんだ選手がいたって話を聞きましたね。「心配せんでも、もうちょっとしたらもうほんと同じリング立つからよ」と。そういう強気なことしか言わなかったですし、自分自身に対しても「いやいやこれからや!まあ見ててよ!」ってそう思ってました。

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