【週末は女子プロレス♯25】引退して12年、妻になった三田英津子が語るデスバレーボム開発秘話 技名に「三田」検討も
「大きいことが恥ずかしかった」北斗晶に矯正された“コンプレックス”
1987年8月5日に全日本女子プロレスでデビューした三田は、父の関係で障がい者の人たちと会う機会が多く、将来はそんな人たちを元気づける仕事をしたいと考えていた。さらにクラッシュ・ギャルズへの憧れをきっかけに全女に入門。身長174センチの恵まれた体格で将来を嘱望されていたが、いわゆる昭和62年組(豊田真奈美、山田敏代、下田美馬、三田英津子)のなかでも同期に大きく遅れを取り、鳴かず飛ばずの日々が続いた。山田とのドリーム・オルカ、豊田とのミント・シャワーズでも三田個人はブレークできない。「三田が出てくるようじゃ62年組も終わりだな!」と北斗晶から罵声を浴びせられたこともある。が、その北斗こそが三田の将来を案じてくれていたのだ。
「幼稚園の頃から幼稚園児に見えなかったり、大きいことが恥ずかしかったんですよ。それで猫背になっちゃって。全女に入ってからは、それを見た宇野(北斗)さんが私の背中にホウキとかモップを差し込んで矯正させたんです。どこの体育館でもそういうのってあるじゃないですか。頭の上にはお皿を乗せてホウキを入れた状態で体育館内を何往復も歩かされましたね」
92年には北斗とともにメキシコ遠征。ここで異国のプロレスに衝撃を受ける。なにをやっても日本人はヒール(ルーダ)。北斗はここぞとばかりに現地ファンの憎悪を買うファイトをやってのけた。ブーイングが快感にもなった。帰国後も低迷は続いたが、これを機に考え方が変わった。北斗とのラスカチョには下田も参加。以後、下田とのタッグが増え、三田&下田でのラスカチョで待望のブレークを果たすこととなる。
対抗戦時代に主役のひとりとして大活躍を見せると、97年9月に全女を離脱しフリー転向。ネオ・レディースを経て再びフリーとなり、女子プロ界を席巻した。とくに古巣・全女で中西百重&高橋奈苗組、アルシオンで浜田文子&AKINO組の大きな壁となり、2000年にはラスカチョで女子プロレス大賞を受賞した。ナナモモ、文子&AKINO組とも団体を背負う若きエース。そこに立ちはだかる外敵ベテランヒールの図式が団体と彼女たちの思惑と一致した。02年に中西、03年に文子が同賞を受賞したことからも、ラスカチョはマット界に多大な貢献をしたと言えるのだ。
05年にはNEOに入団し、09年11月1日の後楽園ホールで引退。リングを降りた理由は、「もういいかなって(笑)」。鳴かず飛ばずの若手時代には後輩よりもファイトマネーが少なく悔しい思いをした。それでもやめようとは思わなかったというが、すでにすべてやり尽くしたとの感があった。現役最後は団体所属でやめたいとの思いもある。ならば、いまがそのときだと考えた。しかし、言い出すタイミングをなかなかつかめないでいたという。
「(井上)京子が妊娠して、戻ってくるまでは頑張ろうと思ったんです。そしたら元気美佐恵が引退となって、松尾永遠もとなった。後楽園大会のたびに誰かが引退するのもよくないので、待つことになったんですけどね」