「前座の力道山」ドン荒川の魅力を追跡 ストロングスタイルの中で披露した一味違うファイト【連載vol.68】
「前座の力道山」として、新日本プロレスで大活躍したドン荒川さんが、2017年11月に亡くなって早くも4年が過ぎた。今でも「どう、柴田ちゃん。元気にしている?」という声が聞こえてきそうだ。
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「前座の力道山」として、新日本プロレスで大活躍したドン荒川さんが、2017年11月に亡くなって早くも4年が過ぎた。今でも「どう、柴田ちゃん。元気にしている?」という声が聞こえてきそうだ。
1972年に新日本入り。カンチョー攻撃などひょうきんプロレスを確立し、前座戦線で人気者となった。黒いロングタイツにヘアスタイル、体つきなどから「前座の力道山」と呼ばれる。その後、SWS設立に参加し、全日本プロレスなど多くの団体に登場。21世紀になっても活躍した。
引退後も底抜けに明るく楽しい「荒川節」をしばしば聞かせてもらった。貴重な話ばかりだった。ただ最後にお会いしたときは「交通事故の後遺症」に苦しみ、慎重に一歩一歩、ゆっくりと歩いておられた…。
サービス精神旺盛なムードメーカーで、彼がいるだけでその場がパッと明るくなった。当時は珍しかったコミカルスタイルの草分けで、ストロングスタイルを標榜する新日本プロレスにあっては、異質なレスラーでもあった。
ずっこけて見せ「立てぃ!」と大げさに相手を挑発するなど、ひょうきんなファイトに「ああいう試合を許すなんて、猪木も丸くなったものだ」という見方も一部にはあった。
だが、実力は折り紙つき。練習熱心で、力も強く、ベンチプレスの記録は一、二を争っていた。常にコンディションが良く、体もパンパンに張っていた。実力があるからこそ、基礎がしっかりしているからこそ、映えるひょうきんプロレスだったのかも知れない。
「練習しているからね」と、力道山のようなポーズで胸を張っていたのが懐かしい。実際に鬼軍曹と恐れられた故・山本小鉄さんも、荒川さんには注意も何もしていなかった。荒川さんのたゆまぬ努力と実力を承知していたからに他ならない。
いつだったか「前座戦線も良いですが、実力があるのだから、もっと上を目指さないのですか?」と聞いたことがある。すると「いやいや、俺がセミやメインに出たら、チャンピオンになっちゃうよ。前座を盛り上げて、セミやメインにつなぐのも大事だから。それに俺は、前座の力道山だからね!」と豪快に笑った。
根っからの目立ちたがり屋で、乱闘のときにはいつもすぐ参加。ただし、自分では攻撃せず応援を呼び込む仕草をしていることが多かった。セコンドについていても、目立つ場所やテレビカメラの位置を常に意識していた。「だって映りたいじゃん」と屈託のない人だった。
自分の試合が終わるとすぐにシャワーを浴びて、ライオンマークのTシャツに着替え、観戦に訪れていた関係者、後援会、スポンサーの案内や、セコンド業務など忙しく動き回っていた。
「大変ですね」と声をかけると「じっとしているのが苦手なの。忙しい方が好きなの」とニッコリ。「さっきまで試合をしていた選手が、いろいろと気を使ってくれる」と、関係者の人たちから絶大な支持を得ていた。
試合のみならず、見えないところでも、陰から新日本を支えていた。「また来てくれたの。うれしいなぁ」などと、ファンにも声をかけ、若い記者にも気を使ってくれた。
夜の付き合いも積極的。飲んで飲んで飲みまくり、みんなが帰るまで帰らない。「営業部長は俺」と豪語していた。
いつもニコニコしているからか「真面目な顔をしているだけで機嫌悪いの? って言われちゃう。普通にしているだけなんだけど。そう言われたら何か悲しいでしょ。だから余計に笑うの」とにっこり。笑顔のスパイラルだったのだ。
愛嬌のある人だったが、サービス精神が旺盛すぎて、お世辞お愛想が行き過ぎてしまうこともあった。親しい人とトラブルになったり、仲間のレスラーともスポンサーを巡って、口も利かない犬猿の仲になったこともあるようだ。でも、どこか憎めない人だった。
元気なときは、よく電話をかけて来てくれた荒川さん。電話魔と言っていいぐらいだった。「外からでも電話できる携帯電話は、夢のようだね」と言い、何台も使いこなしていた。
「今度、あの人を紹介するよ」あるいは「あの人を紹介してよ」など、人と人とのつながりを大事にしていた。もうかかってくることはないけれど、もちろんかけることもないけれど、荒川さんの携帯番号はそのままスマホに残してある。
良くも悪くも「昭和のレスラー」だった荒川さん。今ごろ、天国のリングで憧れの力道山さんと強力タッグを結成しているに違いない。