デビュー50周年の藤波辰爾、プロレスは「いまだに何か分からない」 現役続行の理由明かす

ムタ、白使組との記念マッチは「絶対、これを見てもらいたかった」

――11・9後楽園ホール大会ではムタ組と対戦。意気込みを聞かせてください。

藤波「どうなるか分からない。コロナがなかったら去年やっていたカード。1年越しでしつこくやるっていうことは絶対、これを見てもらいたかった。日本でグレート・ムタと白使、あの2人が組むことってないから。前はムタと白使が闘った。今度は同じチームでやる。それと、今度はボクが久々、天山と小島の中に入って新日チームを作る。ムタと白使はたぶん個性が強いから自己主張するでしょう」

――ドラディションのマッチメークはいつも藤波さんのこだわりが感じられます。

藤波「自分は勝敗というよりも、どうしてもファンを第一に考えている。ここにきて時代が変わって、プロレスに夢が消えちゃっている。ついえている気がする。プロレスは特別なプロスポーツ。もう1回、勝敗だけじゃないプロレスっていう1つのスポーツの魅力をよみがえらせたい。『プロレスに来てよかった』『ドラディションに来てよかった』。ドラディションは1回1回の大会を、そういうファンの声が聞きたいがためにやっている。40周年ときかな、会場の中から『俺はプロレスファンでよかったよ!』っていう声が聞こえたんです。その言葉が何よりもうれしかった。だから試合が終わった後、リングで全選手と写真を撮らせるんだけど、『今回はどんな絵を作ろうかな』って自分の中で頭に想像するんです。シャッターを押したとき、どういう絵が撮れるか。その中から、ここにこういう選手がいたほうがいいなって考えてメンバーを選んでいます」

――最後に現役はいつまで続けられるのでしょうか。

藤波「分からない。ボクは今、67。12月で68になる。自分の目標は70まで、たぶんリングに上がる。70になったら自分の体調を見て、リングに上がれる体調をキープするつもりだけど、それで上がれれば75まで。とにかく、自分の気持ちの中で引退はない。だって、人生に引退なんてありっこない。ボクはもうプロレス=自分の人生そのものだから。自分が老いて倒れたときが自分の引退だから。ボクが生きて動いている以上は引退はないです。そうありたい」

□藤波辰爾(ふじなみ・たつみ)1953年12月28日、大分県国東市出身。70年6月、16歳で日本プロレスに入門。翌71年5月9日デビュー。75年6月に海外遠征へ出発。カール・ゴッチ氏のもとで修行を積み、78年1月にWWWFジュニア・ヘビー級王座を獲得。82年10月、長州力とのライバル抗争に突入。「名勝負数え唄」と呼ばれる。IWGPヘビー級王座は6度戴冠。99年6月、新日本プロレス社長に就任。2006年6月に退団し、「無我ワールド・プロレスリング」を旗揚げ。08年1月より団体名を「ドラディション」へと変更した。15年3月にはアントニオ猪木に続く日本人選手2人目となる米国WWEの殿堂入りを果たした。183センチ、105キロ。

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