デビュー50周年の藤波辰爾、プロレスは「いまだに何か分からない」 現役続行の理由明かす
新日社長時代の秘話…橋本真也戦の真実に現役引退表明の真相
――平成になっても印象に残る試合が多いです。
藤波「亡くなった橋本(真也)戦(2000年10月9日、東京ドーム)。社長時代だったんだけど、社長として二足のわらじというよりも、ほとんど会社に詰めっきりで練習も試合もできなかった。小川(直也)との一戦で、橋本が新日を辞めるとかいう中で、彼自身ものすごく気が弱くなっていた。人間不信というか、あいつが一番自分の弱いところを小川に突かれて、ファンの前でああいった試合をして。橋本がリングに上がらない、辞めるって言ったときに、『辞めて何するんだ』と。とにかくプロレスしかない男だから、新日としては橋本をうまく残したいというのもあるし、彼自身がもう恥ずかしいっていうか、ファンの眼前で、ましてや東京ドームで、小川にあれだけボコボコにされた。家の近くに、夜中に何回も呼び出して説得しましたよ。『とにかくリングに上がれ』と。それでリングに上がって、ちょっと前向きな気持ちになってくれた」
――新日社長時代の03年には1度、現役引退を表明しました。
藤波「あのときは猪木さん自身も新日に対して揺れているときだったからね。ボク自身が普通に試合をしながら社長業をやってるっていうのが、猪木さんからしたら『そういう余裕があるのか』っていう感じで。それで、引退して社長業に専念しろっていうね。そのとき、引退式はしなかったけど、引退ツアーみたいなのを何試合かやったじゃないですか。それは自分の本意じゃなかった。新日の1つの興行の看板であればと、(自分を)犠牲にしてやったけど、やるせなかった」
――同時期、胆石による胆のう手術もありました。
藤波「あのとき、体はガタガタだった。それと、新日の中で猪木さんなのか、猪木さんの周りなのか、不本意なことがいっぱい起き出して、草間(政一=元新日社長)が入って来たり、猪木さんが新日よりもK-1のほうに肩入れし出したとか、それもちょっと半分やるせなくてね。だったら復帰してもう1回リングに上がるよって(復帰した)」
――50年の中で最も後悔されていることは何でしょうか。
藤波「新日の社長をやっているとき、自社ビルを建てて上場しようとしたことがあった。予算の見積もりを済ませて、青写真までできていた。監査法人を入れて、証券会社も決まっていた。だいぶ熱心に打ち合わせをして『後楽園ホールで会見しよう、そこでリングを組んで発表しよう』という絵も描いていたけど、できなかった。家に当時の書類がいっぱい残っているからたまに整理していると、『あ、こんなこともあったな』って思い出しますね」
――50年もリングに上がり続けている原動力とは。
藤波「それは、自分の中のプロレスが理想の形にまだ見えてこないっていうのはあるね。プロレスは奥が深い。いまだに何か分からない。それと、今はもう、自分自身のため。現役であるっていうことは元気でなきゃいけない。見てくれもそうだし、体も元気じゃないと動けない。いつまでも健康であり続ける。それが一番簡単な原動力です」
――まだ、やり残されたこともあるのでしょうか。
藤波「今年初めて日本プロレス殿堂会をお披露目したけど、プロレス界の全部の選手が納得したり、理解しているわけじゃない。これから日を追うごとにちょっとずつ、いろんなことを手直ししなきゃいけないところもある。プロレス界っていうのはいろんな人が張り合ってはつぶれちゃって、結局、私物化するというか、そういうふうにみられるところがある。そうじゃない。殿堂会っていうものを、第三者じゃないけど別の組織で動いているっていうのを見せるのが、これからの仕事だよね」