パラ閉会式ショー総合演出の小橋賢児氏、“休止中”俳優業の今後 明かしたどん底の過去
オファーに鳥肌…「イベントはやらないはナンセンス」
――そんな思いを抱く状況で、東京パラリンピック閉会式ショーディレクターのオファーがあったのですね。
「お話をいただいたとき、どういうわけか鳥肌が立ちました。そして、昨年末から僕は『これからの世界は、あっちが良くてこっちが悪いという二元論でなくていい』と口にするようになっていたし、『イベントはもうやらない』と言っていること自体が二元論だし、ナンセンスだと気づきました。そして、自分が何をしたいのかをもう1度考え、『何をするにしても、人々に気づきのきっかけの場を作りたい』と思っていると整理できました」
――この仕事を引き受け、ショーでも大切にされた『障がい者も健常者もフラットな状態』という考えが根付いた背景とは。
「僕には、実家の家族や友人にも障がい者がいて、僕たち健常者と一緒に過ごしていたこともありますが、31歳のときに初めて監督をした映画『DON’T STOP!』も大きかったです。車いす生活の男性と作家高橋歩氏による米国縦断の旅を描いた物語ですが、渡米前の1か月、僕は男性の自宅に一緒に住まわせてもらいました。ドキュメンタリーを撮るには、被写体にカメラを意識させないことが必要ですし、日常的にトイレの手伝いもする。そうした時間も貴重でした」
――「二元論でなくていい」という考え方であれば、07年から休止している俳優業についても、「NOとは言わない」ということになりますが。
「そういうことですね。本当にオファー来たとき、自分の直感と『これは人に伝えられるべき作品』と思ったら、やる意味があると思います。もう、自分の過去を否定することもしたくないですし、自分のことで未来のことも考えようとは思いません。よく人は『ビジョンを持った方がいい』と言いますが、僕はそれに縛られない方がいいと思っています。その瞬間、瞬間にやれることを楽しんだ方がいいし、気づいたら何かがやって来る行運流水(空行く雲や流れる水のように、深く物事に執着しないで自然の成り行きで行動する例え)だと思って、これからも生きています」
――閉会式の当日、ご家族には連絡しましたか。
「朝、障がいがあって長く病院暮らしをしている実家の家族にも電話しました。『今日、夜にあるから見てね』と伝えると、『そうなの』と言ってくれたので、きっと見てくれたと思います。4歳の息子は、『パパがパラリンピックをやるんだよ』と伝えたら、『パパが出るんじゃなくて、作るんでしょ』と言っていました。息子の名前は瑛人(えいと)ですが、クリエイトのエイトからつけています。『8は(横に倒すと)無限なので、人生を無限の可能性でクリエイトしてほしい』。そういう意味合いを伝えていて、本人もちゃんと理解しています。ちなみに、息子はテレビでショーを見ながら、音楽に合わせて踊っていたみたいです(笑)」
次に手掛けるのは都市開発「人生は変化があるから面白い」
――大きなプロジェクトが終わりました。次は何を。
「しばらくは家族と過ごしますが、実は、先々に実現する仕事にも取り掛かっています。大規模な都市開発です。街づくりは以前から興味を持っていて、これまでも、千葉市の稲毛海岸海浜公園や東京の日の出桟橋埠頭に関する再開発などに関わりました。一つのコンセプトがあって、それに共感して、人が集まっていく流れは、イベントに通じるものがあると思っています」
――さらなる挑戦で、変化を恐れない人生ですね。30歳になる前、どん底だった当時に今の自分は想像できなったのでは。
「確かにそうですね。たった、12年ですから。でも、人は何歳になっても変化できると思っていますし、人生は常に変化し、将来どうなるか分からないから面白い。僕自身、どう変化していくかが楽しみで仕方ありません」
□小橋賢児(こはし・けんじ)1979年8月19日、東京都生まれ。88年に子役としてデビューし、NHK連続テレビ小説「ちゅらさん」など数多くのドラマ、映画、舞台作品に出演し、2007年に俳優活動を休止。米国留学、世界中を旅した後、映画、イベント制作を開始。12年、車いすの男性との旅をドキュメンタリーで追った映画「DON’T STOP!」で監督デビュー。その後、大型イベント「ULTRA JAPAN」のクリエイティブディレクターや「STAR ISLAND」の総合プロデューサーを歴任。日本の花火にテクノロジーやパフォーマンスを融合した「STAR ISLAND」は、サウジアラビアの建国記念日に招致、80万人が訪れるシンガポールを代表するカウントダウンイベントでも開催された。