パラ閉会式ショー総合演出の小橋賢児氏、“休止中”俳優業の今後 明かしたどん底の過去
東京パラリンピック閉会式のショーディレクター(総合演出)を務めたクリエイターの小橋賢児氏(42)は、大役を受けるにあたり、「気づき」があったという。そして、たどり着いたのは「行運流水」(こううんりゅうすい)の境地。27歳で休止した俳優業も含めて「絶対にやらない」とは決めず、そのときの感覚を大事にしていくと明かした。ENCOUNTによる単独インタビュー「後編」では、小橋氏が「どん底」も経験した自身の人生を語っている。
【単独インタビュー後編】 俳優休業、世界を旅、帰国後の挫折で「死にたい」
東京パラリンピック閉会式のショーディレクター(総合演出)を務めたクリエイターの小橋賢児氏(42)は、大役を受けるにあたり、「気づき」があったという。そして、たどり着いたのは「行運流水」(こううんりゅうすい)の境地。27歳で休止した俳優業も含めて「絶対にやらない」とは決めず、そのときの感覚を大事にしていくと明かした。ENCOUNTによる単独インタビュー「後編」では、小橋氏が「どん底」も経験した自身の人生を語っている。(取材・構成=柳田通斉)
――現在42歳。14年前の27歳で突如、俳優活動を休業されていますが、どういう心境だったのでしょうか。
「20代半ばから30代を考え出したとき、このままは俳優を続けていけば、それなりに暮らせて、自分のポジションを築けるだろうと思いながら、俳優を『しなければいけない』という感覚があり、苦しかったんです。ロボットのように生きて、これが自分の人生なのかと思うと怖くなり、自分の心を動かす旅に出ました」
――米留学も含めて、2年後に再び日本で生活をスタートされていますが。
「2年間、俳優やっていたときの貯金で暮らしていましたが、それもほとんどなくなりました。それでも、世界中を回って戻ってきて、『これだけの経験をしたんだから』と何でもできる気でいましたが、うまくはいきませんでした。今思うと、チャレンジにもなっていないレベルで、全てを甘く見ていました。『こういう打ち合わせをすれば、仕事になるんじゃないか』と思っても、何も決まらない。その繰り返しでした。ただ、俳優業を再開しようとは思えず、仕事もない、お金もない、暇っていうのがこんなに苦しいのかとも思いました。そして、知人とトラブルになり、恋人にも三くだり半を突きつけられ、実家に戻って、トイレと食事だけの生活になりました。毎日、『死にたい』と思いながら、病院に行ったら、お酒も飲んでいないのに医者から『肝臓の数値がとんでもないことになっています。思い悩むことはありますか』と聞かれました。僕が『悩むことしかないです』と伝えたら、『感情と肝臓は直結しています。このままいったら、あなた、死にますよ』と。それで、すごく怖くなりました。自分で死にたいと思っていたのに」
トレーナーと再会で社会復帰、イベントプロデュースへ
――その「どん底」の状態から、どのようにして社会復帰を。
「『病気になったんだから、仕方ない』と思うのか、『そうなら、治してやり直せばいい』の選択になったとき、ふと、後者を選べたんです。そして、久しぶりにジムに行って、トレーナーに再会して『これは集中して体を治した方がいい。自然に触れた方がいい』と言われ、すぐに(神奈川県)茅ケ崎市に引っ越しました。そして、海でライフセービングのトレーニング、山を走るトレイルランに取り組みました。トレーナーからは『何でもいいから短期的な目標を』と言われ、30歳まで残り3か月の時点で『誕生日にお世話になった方々をおもてなしする会』を催そうと考えました。今、思えばこれが僕のイベントプロデュースの始まりでした」
―お金のない状態で大胆な発想ですね。
「この時点では『箱代』の概念もなく、『場所を貸してください』と言ったものの、ビックリするほど高かったんです。そこからイベント関係の知人に相談しました。つまらないものではダメだし、ちゃんとイベントとして成立するものにしたいと思い、合羽橋に行って装飾品を探したりもしました。結局、200人くらいの人が集まってくれて、会はとても盛り上がりました。それで作るノウハウ、仲間ができました。そこから試行錯誤をしていくうちに、企業からイベント演出も頼まれるようになりました。それが『ULTRA JAPAN』や『STAR ISLAND』といった大きなイベントにつながっていきました」
――イベントプロデューサーとしてキャリアを重ねる中、東京2020に関わりたいという思いは抱いていましたか。
「実は昨年、東京オリンピックと東京パラリンピックの間に開催予定だった文化プログラム『東京2020NIPPONフェスティバル』のクリエイティブディレクターを担当することになっていました。ただ、コロナ禍で東京2020が延期になり、僕自身は退くことになりました。その他にも、長い間かけて準備してきたイベントが相次いで中止になり、僕の中では『これで、イベントに関わる人生は終わり』という思いが出てきていました」