選手個人のファンクラブが盛んだった昭和のプロレス風景 鶴田とマスカラス“真夏の名勝負”

DDTが21日に、神奈川県川崎市の富士通スタジアムでビッグマッチを開催する。川崎球場を改装した同スタジアムは屋外会場とあって、当日のお天気が気になるところだ。

スーツ姿のミル・マスカラスも格好いい【写真:柴田惣一】
スーツ姿のミル・マスカラスも格好いい【写真:柴田惣一】

1977年8月25日、全日本プロレスの田園コロシアム大会

 DDTが21日に、神奈川県川崎市の富士通スタジアムでビッグマッチを開催する。川崎球場を改装した同スタジアムは屋外会場とあって、当日のお天気が気になるところだ。

 そこで思い出したのが、1977年8月25日、全日本プロレスの東京・田園コロシアム大会。通称、田コロは屋外のすり鉢状の会場で、観戦しやすく、歓声がこだまする独特の雰囲気を持っていた。ビッグイベントによく利用され、新日本プロレスではスタン・ハンセンVSアンドレ・ザ・ジャイアントなど超ド級の大一番のゴングが鳴っている。

 東急・田園調布駅前にあった田コロは89年に閉鎖され、今はマンションが建っている。77年の決戦当日は、荒天だったが試合前には雨が止み、王者・ジャンボ鶴田にミル・マスカラスが挑戦したUNヘビー級選手権試合がスタート。同年のプロレス大賞ベストバウトにも輝いた一戦である。

 プロレス会場での入場テーマ曲にも注目が集まり始め、マスカラスの「スカイハイ」(ジグソー)は、見事にはまり子どものファンを中心に、マスカラス人気に拍車をかけた。選曲した梅垣進(当時の日本テレビ・全日本プロレス中継番組担当ディレクター)も「あれは会心の一発だった。テレビ朝日の新日本プロレスに負けたくなくて、いろいろと考えた策の一つだった。上司の中には反対する人もいたよ」と、楽しげに振り返っている。

 鶴田はキャリア4年だったが、ジャイアント馬場に次ぐナンバー2の座をすでに確立。赤いタイツの若大将として女性ファンを獲得していた。

 華麗な空中殺法が目立つマスカラスも、実はさまざまなメキシカンストレッチの使い手でもある。鶴田をねちねちと攻め込み、タイミングよく繰り出す空中弾で主導権を握っていく。3本勝負の1本目をマスカラスが変型波乗り固めで先取。2本目は鶴田がミサイルキックで押さえ込んだ。勝負の3本目、マスカラスがポスト最上段から場外の鶴田にプランチャを命中させた。ただ、あまりの飛距離もあってか、スチールイスのパイプに足がはまってしまい、ヒザを痛めてしまった。その隙をついて、鶴田がリングに滑り込みリングアウト勝ち。2-1で鶴田がベルトを防衛している。

 人気者2人の激突は期待以上の名勝負となったが、選手個人のファンクラブが結成され始めた時期で、ファン同士の応援合戦もすさまじかった。鳴り物も使われ、鶴田には「ツルタ、ツルタ」の大鶴田コール、マスカラスに向けてはスペイン語の応援。真夏の夜空にこだました。

 全日本のファンは明るく楽しくグループみんなで応援、新日本のファンはグループではいるものの、個人個人が激しく、時にはやじも交えての声援というパターンが多かった。それぞれの団体、それぞれの選手の個性の違いがファンクラブにも反映されていた。

 小中高生が大半を占めていたが、大人になった彼らは、まだプロレスを見ているのだろうか。就職や結婚など人生の転機で、プロレスを離れてしまった人もいるだろう。だが子どものころの記憶は、人格形成に多大な影響を及ぼし、一生忘れないという。

 何かのキッカケでまたプロレスに戻る人もいる。実際、会場で何十年ぶりに再会というパターンもあると聞く。まだ携帯電話のない時代で、引っ越しなどで連絡先が分からなくなってしまった友人も多いだろう。「お互い年を取ったけど、時空を超えて一瞬であの頃に戻った。プロレスの話題は尽きない」と、楽しそうに話しているのを聞けば、こちらもうれしくなる。

 すっかり様変わりしたマット界だが、その頃のファンが変わらずプロレス観戦をしていてくれたら、すてきなことだと思う。(文中敬称略)

次のページへ (2/2) 【写真】ジャンボ鶴田の明るい笑顔は永遠だ【写真:柴田惣一】
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