【懐かし64東京五輪】東京五輪音頭、好景気、芸能界入り…湯原昌幸「忘れられない年」

1960年代から歌手、俳優、司会者として大活躍してきた湯原昌幸さん。「『人生7掛け』で生きています。今74歳ですが、気持ちは51.8歳」と話すが、64年の東京五輪のときは17歳だった。音楽の世界に身を投じた年でもあり、湯原さんにとって思い出の年。そんな湯原さんに東京五輪絡みの思い出話を聞いた。

東京五輪の64年に芸能界入りした湯原昌幸さん【写真:荒川祐史】
東京五輪の64年に芸能界入りした湯原昌幸さん【写真:荒川祐史】

三波春夫の「東京五輪音頭」が夏祭りで流れ…

 1960年代から歌手、俳優、司会者として大活躍してきた湯原昌幸さん。「『人生7掛け』で生きています。今74歳ですが、気持ちは51.8歳」と話すが、64年の東京五輪のときは17歳だった。音楽の世界に身を投じた年でもあり、湯原さんにとって思い出の年。そんな湯原さんに東京五輪絡みの思い出話を聞いた。(取材・構成=坂本俊夫)

 前回の東京五輪が開催された64年は、僕が高校2年、「ホイホイ・ミュージックスクール」というタレントスカウト番組に出て、グループサウンズの「スウィング・ウエスト」に入団し、音楽の世界に入ったときで、忘れられない年です。10月10日の開会式は秋晴れで、友達の家のテレビで見ました。庭のある裕福な家で、僕の記憶ではカラーだったように思います。青空に五輪を描いたブルーインパルス、会場の国立競技場に最後に入場した日本選手団の鮮やかな赤のブレザー、聖火の入場など、よく覚えています。

 親父が建設資材運搬業の会社を経営していました。いわゆる砂利トラ屋さん。砂利や砂、セメントなどを集めて建設現場に運ぶ仕事で、僕も夏休みなどにはトラックに乗って現場に行って、スコップで砂利を積んだりするのを手伝い、小遣いをもらったりしていました。世は建設ラッシュで親父の会社も景気がよかった。日本全体が好景気で、日本人の気持ちも高揚していました。その勢いで東京五輪も開かれた。日本の血が騒いでいたときで、僕もスカウト番組ができたということで血が騒いでいました。

 三波春夫さん(故人)らが歌った、東京五輪のテーマソング「東京五輪音頭」は、五輪前の夏の盆踊りなんかでエンドレスで流れていましたね。

新しいテレビに買い替えて競技観戦

 競技は両親と僕の家族3人でテレビ観戦。五輪のために新しいテレビに買い替えました。“東洋の魔女”が一番印象的でした。大松博文監督(故人)のハードなトレーニングをニュースなどで見て、これ半端じゃないな、あれくらい鍛えないといけないのかなと思ったものです。まして相手は女性ですから。結果として金メダルを取ったので、なるほどあれでイコールなんだなと。

 それと陸上の100メートル走の米国の選手。10秒切るか切らないかだったと思います。ダントツに速かった。すごいなと感動しました。名前は覚えていないなあ。え、ボブ・ヘイズ? そうですか。活躍した選手の名前はあまり覚えていません。当時は個人の選手というより、日本が勝てばいいという思いでしたから。

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