【懐かし64東京五輪】「ビリーバンバン」菅原進はいろいろなスポーツの魅力知った「勝っても負けても泣ける」
連日熱戦が繰り広げられている東京五輪。日本選手が大健闘しているが、1964年の東京五輪も日本選手が躍動した大会だった。兄弟フォークデュオ「ビリーバンバン」の菅原進さん(73)は、それをテレビで応援していた。「うっせぇわ」のカバーがYouTubeで話題の菅原さんに、かつての五輪で印象に残ったシーンや、当時の日本の雰囲気などを聞いてみた。
当時は高校2年生、音楽に夢中だった
連日熱戦が繰り広げられている東京五輪。日本選手が大健闘しているが、1964年の東京五輪も日本選手が躍動した大会だった。兄弟フォークデュオ「ビリーバンバン」の菅原進さん(73)は、それをテレビで応援していた。「うっせぇわ」のカバーがYouTubeで話題の菅原さんに、かつての五輪で印象に残ったシーンや、当時の日本の雰囲気などを聞いてみた。(取材・構成=坂本俊夫)
前の東京五輪のころ、僕は高校2年生。思い出しますね。その後、タレントとして活躍することになる、せんだみつおと出会って親しくなったころだと思います。僕らは同い年でね。荻窪駅のホームで待っていると、せんだが階段を上ってくる。顔だけ見えたときは、かっこいいなと思って、全身が見えたら背が低い(164センチ)。そのギャップがすごくて笑っちゃった。
吉祥寺に住んでいて、あの辺りは武蔵野というくらいですから田舎でしたよ。成蹊学園の敷地の中にある森で木の上に小屋を作って遊んだり、茶畑の上に乗ったり、ツクシを採ったりして、自然の中で遊んでいました。道路も舗装されていませんでした。五輪で都心は変わりましたが、吉祥寺辺りは砂利道のままでした。
当時、今の東急百貨店のところに「吉祥寺名店会館」があって、これが吉祥寺唯一のデパートでした。そこのレコード店に毎日のように通った。アメリカンポップスに夢中で、店で聴いたり、母から小遣いをもらって買ったり。シングル盤は300円くらいでした。最初に買ったのはスティーブ・ローレンスの「悲しき足音」。デル・シャノン、ニール・セダカ、ジョニー・ディアフィールド、リトル・リチャードなどのレコードを買いました。ギターもそのころ覚えた。
女子バレーボールの熱戦を家族5人、ちゃぶ台囲んで応援した
当時の庶民の娯楽といえばテレビくらい。東京五輪もテレビで応援しました。どの家にもあるわけではなかったですがうちにはあって、オヤジ、オフクロとアニキ2人の家族5人で、ちゃぶ台を囲んで見た。家族だけでなく近所の人も集まってきて、応援した記憶があります。電波の入り具合が悪いとテレビについているアンテナを動かしてみたり、五輪の競技もタイムの計測にストップウオッチを使っていたりと、ほのぼのとした五輪でした。あのころは時の流れもゆったりとしていました。
そんな中、映像として記憶に残っているのは、“東洋の魔女”と言われ、決勝戦をソ連(現・ロシア)と戦って金メダルを取った女子バレーボール。といっても、選手たちより、監督の大松博文さん(故人)の方の印象がすごかった。“鬼の大松”といわれるほど過酷な練習を課した。それが心に残っているんです。水を飲んじゃいけないとか言われていた時代で、今だったら考えられないですよね。