ヤングライオンがまた海外へ武者修行 道場で流した“血と汗と涙”は貴重な経験
新日本プロレスのヤングライオン、辻陽太と上村優也の2人が海外武者修行に出発する。片道切符で無期限。たとえ凱旋(がいせん)帰国できたとしても、全員がスターへの階段を順調に上がれるわけではない。上村の壮行試合の相手を務めたオカダ・カズチカが言う通り「成功する人もいれば、成功しない人もいる。それはしょうがない。プロレスの世界だから」である。
昭和が終わり平成を経て令和になろうとも、若き獅子たちの思いは変わらない
新日本プロレスのヤングライオン、辻陽太と上村優也の2人が海外武者修行に出発する。片道切符で無期限。たとえ凱旋(がいせん)帰国できたとしても、全員がスターへの階段を順調に上がれるわけではない。上村の壮行試合の相手を務めたオカダ・カズチカが言う通り「成功する人もいれば、成功しない人もいる。それはしょうがない。プロレスの世界だから」である。
昨今は長期の海外修行を経ずにメインイベンターに駆け上がる選手もいるが、昭和の時代からスター選手たちがたどってきた道のりだ。東京・世田谷区野毛にある新日本プロレス道場から巣立っていくヤングライオン。道場と合宿所が改装されて約9年になるが、ここで流された血と汗と涙は、1972年の新日本プロレス創設以来、変わることはない。
多くのヤングライオンたちが青春を過ごした道場。若き逸材たちの楽しくも切ない物語にあふれている。
後援者から合宿所に差し入れも多く、「たくさん食べて大きくなってほしい」との願いからか、差し入れのほとんどが食材だった。米、肉、魚、野菜、その土地の名物がたくさん送られて来ていた。
現代のようなアスリート体型という考えはなく、とにかく「食べて大きくなれ」という指導方法。差し入れる後援者も「自分が送ったものを食べて、それが血となり肉となり、強い体を作る。本当にうれしい」と、それが喜びになっていた。
今と違って、娯楽の少なかった昭和の時代、夏の定番と言えばスイカ割りだった。超大型の冷蔵庫にも入らないような大きなスイカが、たくさんタライに冷やしてあった。
ある夏の夕暮れ時、「スイカ割りをしよう」と急に盛り上がり、みんなでスイカを抱えて、すぐ近くの多摩川の河原へ向かった。童心に返りワイワイ言いながらスイカ割り。目隠しをし、くるくる回されるのだから、振り下ろす棒きれも、なかなか当たらない。
体も大きく力の強いレスラーたちのスイカ割りは豪快そのもの。思いきり、地面をたたいて手がしびれたり、木の棒が折れてしまったり。やっと当たったと思ったら、力が強すぎて、スイカはバラバラ。とても食べられる状態ではない。
「あ~、どうしよう…」と、途方に暮れるヤングライオンたち。
「川に流そう!」と、誰かが言い出した。
「そうだね。田舎の実家の方では、お盆に何か流していたよ」
それは精霊流しだが…。
バラバラになったスイカを多摩川に流し、みんなで一斉に拝んでいた。
夕焼け、セミの声、遠くからかすかに聞こえる風鈴の音。
「供養になったよね」と、みながすがすがしい表情だったが、一体、何の供養なのか。スイカの供養なのかは、誰も分からない。その後、合宿所に戻り、タライに冷やされたスイカを普通に包丁で切って食べるヤングライオンたちだった。
また、「力道山ごっこ」と称して、空手チョップ(手刀)でスイカに挑む猛者もいた。大きなスイカは皮も厚く、ヒビは入るがなかなか割れない。グーパンチを繰り出したが、今は亡き鬼軍曹・山本小鉄さんから「こぶしを痛めるからやめなさい」と雷が落ちた。
後年、スイカバーになるスイカを模したアイスキャンデーが発売されたが、種の形をしたチョコを本物の種だと思い「チョコの種」を、一つ一つ取り除いて食べる選手もいた。「種を食べたら、盲腸になっちゃうって聞いたよ。お腹を切ったら、しばらく試合できなくなるからね」体は大きいが純粋な子どものようだった。
スイカを見る度、思い出す。
昭和が終わり平成を経て令和になろうとも、プロレス界の頂点を目指す若き獅子たちの思いは変わらない。辻と上村が凱旋帰国する時には、どんな成長を遂げているのか? 今から楽しみでならない。