【懐かし64東京五輪】高校2年だったせんだみつおは五輪観戦よりも夜遊びに夢中だった
五輪よりみゆき族のお姉さんをナンパする方が大事だった!
東京五輪に合わせて、東京の街も変化していました。日比谷線が全線開通したり、首都高速道路ができたりして、活気がありました。食べ物もどんどん豊かになって、僕の家が出前をよく取るようになったのも、このころから。僕は「平凡パンチ」(平凡出版)や「週刊少年サンデー」(小学館)を読んだり、アイビールックで悪友と都心に夜遊びに出かけ、日比谷公園でみゆき族のお姉さんをナンパしたりしてました(笑)。そっちの方が勉強より、五輪より大事でね(笑)。心配したオフクロに「みつお、そんなに遊んでばっかりいたら、将来は芸能界しか行くとこないよ」と言われたら、その通りになっちゃいました(笑)。
五輪のときは、驚きがたくさんありましたよ。東京に外国人がたくさん来て、「こんな大きい人がいるんだ~」とかね。「何食ってんのかな」「こりゃ、日本は戦争に負けるはずだ」なんて思いました。僕は樺太生まれだけど1歳で日本に引き揚げて来て記憶はないから、外国人なんて、ほとんど見たことがありませんでしたから。まぁ僕だけじゃないでしょうけど。外国って米国、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアぐらいしか分からなくて、ほかにどんな国があるの? という程度の認識。もちろん見分けもつかない。先日、IOCのバッハ会長がジャパニーズピープルというところをチャイニーズピープルなんて言って物議を醸しましたけど、逆に欧米人からしたらアジア人はみんな一緒くたなんでしょうね。
昭和の人間にとって、昭和=五輪、皇太子殿下御成婚ですよ。東京五輪は戦後の好景気をより勢いづかせる起爆剤でした。戦争に負けてうちひしがれて、まだ19年しか経っていなかったのに、東龍太郎都知事(当時)はよく招致したな、日本は五輪をやるまでによく復活したな、すごいな、と感じていました。今回の「東京2020大会」も復興五輪をうたったけど、新型コロナでそれどころじゃなくなっちゃった。五輪は単純なお祭りでもなくなっていますしね。僕は昔の五輪のアマチュア精神が好き。昭和、平成、令和と生きてきて、昭和は何でも良かった、という気はないけれど、大切にした方がいいこともあると思いますよ。
□せんだみつお 1947年7月29日、樺太(サハリン)・真岡町生まれ、東京・杉並育ち。本名:中野光雄。駒澤大経済学部中退後にバンドの付き人やコンサートの司会を始め、69年、ラジオ番組のリポーターに。70年代にバラエティー番組「ぎんざNOW!」(TBS系)や「うわさのチャンネル」(日本テレビ系)の司会でブレークし、「ナハ! ナハ!」のギャグで大人気となった。90年代後半には“せんだみつおゲーム”が宴会芸として流行した。