不慮の死を遂げた「超獣」ブルーザー・ブロディを33回目の命日にしのぶ【連載vol.51】

「超獣」ブルーザー・ブロディの命日(7月17日)がやってきた。

ド迫力のブルーザー・ブロディ【写真:柴田惣一】
ド迫力のブルーザー・ブロディ【写真:柴田惣一】

1988年プエルトリコ遠征中に不慮の死

「超獣」ブルーザー・ブロディの命日(7月17日)がやってきた。

 1988年、プエルトリコ遠征中に、ホセ・ゴンザレスに刺殺された。42歳での不慮の死だった。訃報が流れるとレスラーにもファンにも衝撃が走った。「ウソだろ? まさかあのブロディが死ぬなんて」。誤報であることを願ったファンも多かったはず。それほど信じられない出来事だった。

 スポーツ紙記者からプロレス入りしたブロディ。バランスの取れた大きな体。毛皮のベストをコスチュームとし、チェーンを振り回しながら、毛皮のブーツで相手を蹴散らす。パワーみなぎる豪快なファイトを得意としながらも、その眼には知性があふれており「インテリジェンス・モンスター」と称された。

 記者の拙い英語にも真摯(しんし)に答えてくれた。「それは、どういう意味ですか?」と問い直すと、易しい英語に言い換えてくれる。時にはスペルを書いてくれ、いつも持ち歩いていた小型の辞書を指差し「これだよ」と教えてくれることもあった。

「garbage」が「ゴミ」と知ったのは、ブロディに、あるスター選手について「どう思うか?」と聞いた時だった。他にも、自分より小さな選手を「ミゼット」とやゆしたり、とにかく試合も言動も刺激的だった。それだけ自分に確固たる自信があったのだろう。

 米取材ツアー中に、テキサス州サンアントニオ郊外の自宅に伺ったこともある。ブロディに紹介された質素なモーテルで待っていると、ピックアップトラックで迎えに来てくれた。

「どんな高級車だろうか?」と、ブロディの愛車を期待していたので正直ガッカリ。モーテルも町一番のリーズナブルな宿だった。恐る恐る「もう少し、いい宿でも良かったのに。車もこれですか……?」と聞いたところ「この車はよく走るし、荷物もたくさん積める。燃費もいい。このモーテルも部屋は清潔だし、ベッドも十分に広いだろ」といさめられてしまった。

 米国有数の観光地サンアントニオの思い出は、ブロディの質素倹約話に尽きる。丈夫で動きやすいラフな出で立ちに、実用性を重視した車。自宅訪問した外国人レスラーは大方、堅実な生活を送っていたが、ブロディは中でもぜいたくとは無縁だった。「質実剛健」という言葉がピッタリかも知れない。

 とはいえ、自宅は大きくて立派だった。「ここからうちの土地だよ」と教えてもらってから10分以上、車で走ってやっと家に到着した。バーバラ夫人とジェフリー君が出迎えてくれた。まだ、小さかったジェフリー君に、お土産のフリスビーをプレゼントした。後日、日本で「アレで遊んでくれたかな?」と、ブロディに聞くと少し気まずい表情になった。そして「悪い。庭で遊んでいたが、屋根の上に飛んで行ってしまった。今は屋根にある」とウインクしてくれた。

 スタン・ハンセンとの「超獣コンビ」は日本マット史に刻まれるスーパーパワータッグだった。全日本プロレスから新日本プロレスに移籍したとき「猪木の目にバーニング・スピリットを見た!」と名セリフを吐き、新日本の後楽園ホール大会に登場。階段を降りてくるときのBGMは「運命」だった。

 新日本の仙台大会をボイコットし、全日本にUターンするなど、トラブルメーカーでもあった。ただし、それは自分の商品価値を冷静に判断し、その時に1番輝ける戦場を選んだ結果だった。

 スタン・ハンセン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン……。多くの外国人選手と交流させてもらったが、ブロディには英語はもちろん、生き方についてもたくさん教えてもらった。

 縦横無尽に暴れ回ってはいたが、知的で、そしてどこか憂いを含んださみしげな瞳が忘れられない。安らかに。(文中敬称略)

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