“Uの頭脳”宮戸優光氏、料理人としてのゴール明かす 格闘人生36年で目指す究極の味とは
ちゃんこ上手「ベスト3は田村選手、桜庭選手、山本選手」
ーー宮戸さんと言えば、中華のイメージもあります。
「自分がプロレスを辞めた後にお世話になった周富徳先生、そこでちょっと学ばしていただいた中華の技法というかね、そういったものもチャーハン始めいくつかお出しさせていただいてます。そういう意味では、プロレスの歴史であり、私の若手時代の思い出の味であり、そしてプロレスを辞めてからの私の夢の味というかね、中華を勉強して中華料理のお店やってみたいなとちょっと思ったこともあった。そんな夢の端々を食べていただいているという感じですかね」
ーー周先生のもとではどれくらい修行されたのですか。
「いやいや修行というか、あれは短い期間だったので、いわゆる研修ですよね。いろんな調理場そのほかでお世話になったのは、周先生とあともう1人そのお弟子さんのところで。1年はなかったでしょうね」
ーーいつか料理人になる夢は研修中からあったのですか。
「いや、もうなかった。なかったというか、そこでいったん研修という形で途切れてしまったのは、やはりプロレスへの思いが1つと、もう1つは調理人の世界は朝から晩まで長いんですよ。もう本当、朝早くから夜最終電車ぐらいまで。だからこの時に、やっぱりボクは食べる側に回りたいというかね、結局、自分が作って出したいなという思いもあるんだけど、やっぱりいろんなおいしいものを食べいきたいというのがその時まだ強くて、これじゃ自分がいろんなところに食べにいくことができないなというのを実際には思い知りましたから。調理場の中にいて初めて分かったんです」
ーーイメージと現実は違ったと。
「調理場にいると、どんなにおいしいお店にいても、例えば5000円、1万円払って食べるような料理は、下の人は一切口にすることはできないということなんです。そこで働いている人たちより、おいしいものを自分のお金で食べてきたという、そういう意味での修行はできてたのかなと思いますよ。自分のお金で、いろんなところに食べ行った。当時Uインターでボクもお金があったから、飲食でほとんど使っちゃってましたからね。周先生もそういう流れの中での人間関係でのご縁ですから。食べに行かせてもらってて、知り合ったわけですから。そういうことも含めて、無駄にはなっていないかなと思いますけどね」
ーー周先生との思い出はありますか。
「1つだけね、周先生がよく本で、『調理場のまかないのめしというのは本当においしくて、お客様に出すより下手したらおいしいんだ』って書いてあったのを目にしたり、あるいはボクは言葉でもお聞きしたことがあった。それで、いざ調理場に入って、まかないを楽しみにしていたんだけど、プロレスのちゃんこ、いわゆるプロレスのまかないのほうがまかないではおいしかったですよ。おいしさの原点は何かというと、結局、毎日食べてもおいしいって思える味ですよね。若い時はご飯が何倍もおかわりできるような味というんですかね。そういう意味ではちゃんこは日々毎日のことですから、毎日食べても飽きない、毎日食べてもおいしいっていう料理だったなっていうのはありますね。ここでお出しする料理も家庭料理と同じことですよね。レスラーの家庭料理というかね。ちゃんこ=レスラーの家庭料理ですよね。我々の日常食、日常の味。そういうふるさとの味なんです」
ーー一度料理の道を断念したからこそ、夢を実現させたかったという思いはありますか。
「結果としてはそうですけど、そういう意地みたいなものは全くなかったですね。そこで料理を選ばなかったことに未練はなかったので。挫折感は全くなかったです。自分がプロレスに関わって今の仕事をしたいという思いが強かったですし、料理というものの厳しさを知ったことは挫折じゃなくて、作る側に回るより食べに行くほうが好きだなというそういうプラスの選択でしたから。そこは挫折感も悔しさもなかったんだけど、こういう形で戻ってきたことはやっぱり心のどこかであったのかなとも思いますよ。だから、自分でチャーハンをメニューに入れているわけだけど、ちょっと自分で不思議な感じしますよ。道場でいわゆる昔あったちゃんこのメニューを出すのは違和感はない。そんな特別なこと感じないんだけど、チャーハンでお客様にお出しして『おいしい』とか言われたり、お代をちょうだいするというのはなんとも不思議ですね。それこそ、中華を本当に修行して短い期間だけど、ボクがお世話してくださった人にとっちゃ、『なんだアイツ』っていう感じかも分からない」
ーー道場が隣接しています。指導者と料理人の比重はどっちが大きいですか。
「今は料理です。道場は毎日でも行きたいのはやまやまなんですけど、厨房はボク抜きでは回すことは誰もできない。奥の道場に関して言えば、最初『なんで教えてくれねえんだ』っていう雰囲気もあったんだけど、『オマエ、ボクは20年毎日教えていたよ』って。そうじゃなくて、ボクもそうだったんですけど、ロビンソン先生がいなくなってからののちの10年というのは、本当に勉強になったんですよね。いる時っていうのは検索機能が横にあるみたいで、チョンチョンと押して答えをビュツと出されたりされちゃうから残らないんですよ。考える時というのは、常駐されなくなってからのほうが実は大きかった。そういう意味では、みんなもいない中で結構学んでくれてるかなと思っています。実際道場での指導は正式には週1回しかやってないですよ。手が空いた時とか終わってからちょっとワンポイントじゃないけど、向こうに行ったりしますけどね」
ーー料理人としてのゴールはどこに置いていますか。
「CACCを20年、若手の頃から入れれば30年も40年もレスリングやってきた人間が、料理をやったらどうなるのかっていう自分自身のテーマもありますよ。それが駆け出しの若者と同じだったら、自分が30年40年やったレスリングが、何にもマット以外では応用が利かなかったのかって、そういうことにもつながるわけでしょ。やっぱり、CACCをここまでやってきたキャリアというもの、なるほどそういうことやってきた人間がやるとこうなるのかっていう何かを自分自身がつかみたいです。人に証明するじゃなくてね。自分自身でそういう何かというものを感じたい。だって普通の人間が作るのと、ここまでレスリングやってきた人間が作るのが全く同じだったら、人がどうのこうのじゃなくてボクがバカですよ。そこの何かがそこに含まれてこなかったら。生き様じゃないけどね。Uの魂じゃない。CACCの魂。Uの魂なんて言われると、頭来るんだよ。あれは過去の卒業したものだ」
ーーUWFのちゃんこ番だった時のメンバーを教えてください。
「木戸修さん、佐山さん、藤原喜明さん、前田日明さん、高田延彦さん、こんな感じですね。一緒にちゃんこを作っていたのは、中野龍雄(現・巽耀)さん、安生洋二さん、その後で言えば田村潔司選手、桜庭和志選手、高山善廣選手、山本健一(現・喧一)選手。田村選手、桜庭選手は上手でしたよ。3人挙げるとしたら、田村選手、桜庭選手、山本選手、この3人が上手でした。その次が高山選手。あとは上手なのいなかったね。ボクは別格(笑い)。たむちゃん、上手だったね。実家がすし屋のせいもあるけど、彼は上手ですよ。山本選手は北海道で店を出しているみたいよ。意外にうまいですよ。桜庭選手はメニューは限られていたけど、上手でしたね」
ーーUWF道場でも力道山から始まるちゃんこの味が継承されていたのは驚きです。
「そうそう。結局、『なんで味が変わらなかったんですか?』っていうと、みんなうるさい先輩方っていうのは味が変わっているのが嫌なんですよ。もし下手に味を変えたら、『誰だ、今日のちゃんこ番』『これ味違うじゃんか』ってこう言われちゃうわけ。これ改良でもダメなんですよ。上手にできない人はだいたい、そういうこと言われちゃう。結局、言われるのが嫌だから、自分が苦手なメニューは作らない。だから桜庭選手も上手だったけど、彼、湯豆腐は作れないの。でも、湯豆腐を食べるのが好きだったから、自分が湯豆腐食べたくてちゃんこ番の時は、タレだけ山本選手にいつも作ってもらってた。どのメニューでも上手な人っていうのはあまりいないんです。得意下手があるんでね。ボクのちゃんこの評判? よかったと思いますよ。高田さんからは『うまいな、お前のちゃんこ』って言われたことありますよ。ゴッチさんもそう。『お前の目玉焼き、うまいな、グッド!』って。ボクの同僚で先輩にハシつけられずに帰られた人いますからね。そういうことも時にはあったんです」
□宮戸優光(みやと・ゆうこう)1963年6月4日、神奈川県出身。75年、アントニオ猪木VSビル・ロビンソンを生観戦して感激する。中学生時代は柔道部に在籍。83年、佐山聡と合流し、内弟子となる。85年、第1次UWFの9・6後楽園ホール大会でデビュー。88年、第2次UWFの旗揚げに参加。91年、第2次UWF解散後はUWFインターナショナルの旗揚げに参加。「Uインターの頭脳」として活躍する。99年、ランカシャーレスリングのジム「UWFスネークピットジャパン」を設立。コーチとして”人間風車”ロビンソン氏を招く。2008年9月、猪木氏率いるIGFと業務提携し、GMとしてその実力を発揮した。道場に併設する食堂「ちゃんこの台所」は月曜~土曜、午後6時~10時。