「力道山2世」が死を覚悟した肺がんから奇跡の生還 3世との親子タッグ復活に動き出す

「力道山二世」百田光雄が肺ガンから奇跡の復活。来年の復帰を目指して新たなチャレンジをスタートさせた。

力道山二世・百田光雄はリング復帰を目指している【写真:柴田惣一】
力道山二世・百田光雄はリング復帰を目指している【写真:柴田惣一】

ジャイアント馬場からは金の管理を任されるほどの信頼を得ていた

「力道山2世」百田光雄が肺がんから奇跡の復活を果たし、来年の復帰を目指して新たなチャレンジをスタートさせた。

 ことの始まりは運転免許証の更新だった。視力を万全にするため、白内障の手術を受けることになったが、血液検査を受けたところ、異常が見つかり、レントゲン撮影に臨んだ。当初は問題ないとされていたものの、今年始めになると肺に影が広がり、CTによる精密検査でも一気に進行していた。

「3月2日に入院したんだけど、とにかくあっという間に悪化してしまった。女房はお医者さんから『治療中に亡くなることもあります』と、言われていたんだって。俺は何も知らなかったけど」と、今でこそ笑い飛ばすが、息子の「力道山3世」力が、SNSで危機を発信していたように、実際はかなり危険な状態だったようだ。

 放射線や抗がん剤治療に取り組んだ。副作用に苦しむとよく聞くが「幸い、俺には合ったんだよ。痛みもないし、気分も悪くならない。髪の毛も抜けなかった」と振り返る。体重こそ減ってしまったものの「お医者さんや家族のバックアップのおかげで、帰ってこられたよ」と、その声は力強い。

 5月10日に退院。愛煙家だったが「当然、やめたよ。お酒もね」とウインク。禁酒、禁煙、免疫治療を受けながら、無理をしないペースでリング復活を目指していく。

「1年か、それ以上か。焦らずにやっていく。皆さん、待っていてくれるかな」と、にこやかな表情から前向きな思いがあふれ出ていた。目標を持ち、それに向かって進んで行くのは、回復への近道だ。

 百田は1968年に父・力道山が設立した日本プロレスに入門。70年にデビュー後、全日本プロレス旗揚げに参加した。若手選手のデビュー戦の相手を務めることが多く、大仁田厚は「俺に渕正信、ハル薗田、越中詩郎、三沢光晴、川田利明……みんな光雄さんから始まり成長した」と、感謝の言葉を送っている。

 第1試合に「6時半の男」として登場することが多かった。89年に40歳にして世界ジュニアヘビー級王座を獲得したときには、その人気が爆発した。ジャイアント馬場、ラッシャー木村とファミリー軍団を結成し、渕、永源遥、大熊元司らの悪役商会と対戦したが、休憩前のメインイベントと呼ばれ、これまた会場を沸かせている。

 リング外でも馬場に頼りにされており、現金の詰まったアタッシュケースを預かり、シリーズ中の支払いなどを担当していた。金の管理を任されるとは、どれほど信頼されていたのかが分かる。

 2000年のノア立ち上げに加わり、副社長に就任したが、09年に退団。その後はフリーとなり、息子・力との親子対決、親子タッグでも活躍していた。記者が取材を始めた1980年代初めの全日本プロレスはクセの強いベテラン選手が多く、なかなか溶け込めないでいたが「お! 柴田くん、元気か?」という百田の声を聞くと、ほっとしたものだ。気さくに優しく、話しかけてくれた。

 日本プロレスの父でもある父・力道山や馬場、そして今だに最強説の強いジャンボ鶴田のお話をよく聞かせてもらったものだ。力道山から現代まで。百田はまさに生き証人。まだまだ聞かせていただきたい貴重なお話はたくさんある。1日も早いカムバックを待っています。(文中・敬称略)

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