元ラグビー世界選抜のプロレスラー 阿修羅・原さんの七回忌に思うこと
「流浪のヒットマン」阿修羅・原さんの七回忌(4月28日)がやってきた。2015年に故郷・長崎県の病院で肺炎のため亡くなっている。68歳だった。
4月28日、「流浪のヒットマン」阿修羅・原さんの七回忌
「流浪のヒットマン」阿修羅・原さんの七回忌(4月28日)がやってきた。2015年に故郷・長崎県の病院で肺炎のため亡くなっている。68歳だった。
1970年代前半、近鉄のラグビー部で活躍し日本代表にも選出された。ナンバー8からプロップにコンバートされ、スクラムの最前列で日本ラグビー躍進のために大活躍した。その勇姿は世界から注目され、世界選抜チームにも選出されている。
1977年に鳴り物入りで国際プロレス入り。ラグビーファンの作家・野坂昭如さんによって阿修羅・原と命名された。リングネームは大々的に発表されたが、本名(原進)が気に入っていた原さんは「そのうち、慣れると思います」と微妙な反応だった。
実際、イケメンレスラーの走りだった原さんが阿修羅のごとく、攻め込み、必死に耐える姿に、阿修羅のリングネームが徐々になじんできた。
ラグビー仕込みのタックルはさすがの破壊力を発揮し、ポスト最上段から叩きつける雪崩式ブレーンバスターを開発した。ところが、実戦で公開する前に報道されたことで、新日本プロレスの木村健悟さんに先に繰り出されるという事件もあった。「あれは悔しかったねぇ」と振り返っていた。泣き言を言わない人だったが、かなりこたえたようだ。
その後、全日本プロレス、SWS、WARなどで活躍し94年に引退したが、WWU世界ジュニアヘビー、IWA世界タッグ、アジアタッグ、PWFタッグ、世界タッグなど多くのタイトルを獲得。特にタッグ戦では自身を犠牲にするファイトで、パートナーの信頼も厚かった。中でも天龍源一郎との龍原砲は、公私に渡る名コンビで一世を風靡(ふうび)した。
とにかくカッコいい人だった。近鉄ラグビー部時代から女性社員の熱い視線を集めていた。70年代のラグビー会場は大半が男性ファンだったが、数少ない黄色い声援を一身に浴びていた。
プロレスラーに転身後も、激しいファイトスタイルとは裏腹に、優しくダンディな物腰で女性ファンはもちろん男性ファンの支持率も高かった。
まるでフーテンの寅さんのように、自由人で風来坊でもあった。時折、その所在が分からなくなることも……。「鳥はいいよな。自由に空を飛べて」。遠い目をしてそうつぶやいた。
後輩には金を使わせなかった。「ここは俺が」と頑として譲らない。そんな原さんを慕って応援する人たちが日本各地にいた。超高級車で移動し、美味しい地元の名物を楽しんでいた。ご一緒させてもらい、お返しをしようとしても、これまた「いいから」と手を振るばかり。「格好つけさせてくれよ」と横顔で笑った。
相手に負担を感じさせない自然な言動は、まさに男が男に惚れる格好良さ。男として憧れたものだ。
晩年は地元に戻って、ラグビー指導しながら、ご家族の介護にも忙しかったようだ。「地元の高校生にラグビーを教えている。家族のことも大変だけど、俺らしい人生の締めくくりだよ」と、電話でお話したのが最後になってしまった。
原さん、自慢のタックルで三途の川の鬼をぶっ飛ばしたのでしょうね。天国のリングで大暴れしているのですか。毎年命日には「おい、柴田クン、元気か? 何しているの?」という原さんの声が聞こえてくるような気がします。