【プロレスこの一年 ♯38】“インドの狂虎”シンがNWF世界ヘビー級王座を奪取 馬場とサンマルチノのWタイトル戦 75年のプロレス

馬場と握手を交わすビンス・マクマホン氏(写真は90年)【写真:平工 幸雄】
馬場と握手を交わすビンス・マクマホン氏(写真は90年)【写真:平工 幸雄】

馬場が「第3回チャンピオン・カーニバル」で優勝

 猪木は左ヒザ負傷で8月22日から欠場も、9月19日の千葉大会から復帰。その3日後の22日にはアメリカNWA総会で新日本のNWA加入がようやく認められることとなる。しかし、あくまでも条件付きの承認で、そのなかにはNWF世界ヘビー級王座から「世界」の名称が剥奪される条項も含まれていた。よって、NWF世界ヘビー級王座は翌年8月よりNWFヘビー級王座に“格下げ”となってしまう。世界のマット界的には格落ちながら、王者・猪木は新日本での戦いでステータスを上げていくことを強いられる。

 猪木はNWA加盟承認後のNWF世界王座をルー・テーズ(10・9蔵前)、ビル・ロビンソン(12・11蔵前)に防衛。テーズからの勝利、さらにはプロレス史上に残るロビンソンとの60分フルタイム名勝負など、猪木は試合内容で権威に対する意地を見せていくのである。さらに年末の12月15日、猪木はニューヨークのマジソンスクエアガーデンに初登場。フランク・モンティを相手にバックドロップで勝利を飾った。その後実現する藤波辰爾やタイガーマスクのMSG参戦、その先駆けとなったのである。

 この年の全日本はNWA加盟から2年。2月には「NWA加盟2周年記念エキサイト・シリーズ」を開催した。これは、新日本がNWA加盟を拒否されていることをあえて意識したシリーズ名。NWA経由でやってくる大物外国人レスラーがジャイアント馬場・全日本の大きな売りだった。そのため、新日本は大物外国人を呼ぶことが制限され、無名の外国人レスラーを自前で育て上げる手段を使わざるを得なかった。そこでブレークしたのが、シン、その後のスタン・ハンセンだったわけである。

 全日本は春の「第3回チャンピオン・カーニバル」で馬場が優勝(5・3和歌山)。5・9日大講堂では馬場がPWFヘビー級王座、ブルーノ・サンマルチノがWWWFヘビー級王座を懸けたダブルタイトルマッチが実現した。試合は両者リングアウトのドローで、ともに防衛。現在のWWEにつながるWWWFヘビー級王座が日本で争われたのはこれが初めてである。

 10・30蔵前では、前年に猪木に敗れた大木が馬場に挑戦。ノンタイトルで行われたシングルマッチは馬場がネックブリーカードロップで大木からフォール勝ちを収めている。この日、国際のラッシャー木村とマイティ井上が来場し、「世界オープン選手権」への参戦を表明。まずは国際11・3後楽園で国際VS全日本の対抗戦が実現し、国際が2対1で先勝した。

 猪木VSロビンソンと同日(12・11)に武道館で開催された「力道山十三回忌追善特別興行」では、馬場&ザ・デストロイヤー組がジャンボ鶴田&ドリー・ファンクJr組に勝利。大木とアブドーラ・ザ・ブッチャーが両者リングアウトの引き分け。ブッチャーは力道山の長男・百田義浩を襲撃、流血の憂き目に遭った義浩はその後、プロレスラーとしてデビューする。また、次男・百田光雄がメキシコ、アメリカ遠征から凱旋帰国を果たし、日本初となるトペ・スイシーダを公開。ヒロ・マツダは井上を破りNWA世界ジュニアヘビー級王座を防衛に成功した。

 「世界オープン選手権」では12・15仙台で馬場と鶴田がシングル初対決を行い、馬場が貫禄勝ち。2日後の千葉では馬場と木村の初シングルも行われたが、ブッチャーが乱入し木村が流血。国際側が抗議するも受け入れられず、試合は馬場が勝利した。最終戦は18日の川崎で、ホースト・ホフマンを破った馬場が最高得点で優勝を飾ってみせた。(文中敬称略)

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