【プロレスこの一年 ♯38】“インドの狂虎”シンがNWF世界ヘビー級王座を奪取 馬場とサンマルチノのWタイトル戦 75年のプロレス
“インドの狂虎”と呼ばれ昭和を代表するヒールレスラー、タイガー・ジェット・シンの運営する「タイガー・ジェット・シン財団」が2月25日、東日本大震災への支援活動を含む日本との友好親善活動が評価され、カナダの駐トロント総領事から表彰された。日本ではサーベルを手にした狂乱ファイトでファンはもちろん、取材するマスコミからも恐れられたシンだが、地元では現在、財界の名士として知られている。そのシンがレスラーとして初めて日本に姿を見せたのは、1973年5月4日の川崎市体育館だった。謎のインド人が突如として山本小鉄を襲撃し、この行動からヒールファイトを徹底。以来、新日本のトップ外国人レスラーに君臨するようになったのである。
猪木とシンの王座を巡る攻防
“インドの狂虎”と呼ばれ昭和を代表するヒールレスラー、タイガー・ジェット・シンの運営する「タイガー・ジェット・シン財団」が2月25日、東日本大震災への支援活動を含む日本との友好親善活動が評価され、カナダの駐トロント総領事から表彰された。日本ではサーベルを手にした狂乱ファイトでファンはもちろん、取材するマスコミからも恐れられたシンだが、地元では現在、財界の名士として知られている。そのシンがレスラーとして初めて日本に姿を見せたのは、1973年5月4日の川崎市体育館だった。謎のインド人が突如として山本小鉄を襲撃し、この行動からヒールファイトを徹底。以来、新日本のトップ外国人レスラーに君臨するようになったのである。
猪木を付け狙うシンが日本で初めてベルトを巻いたのが、75年3・13広島でのNWF世界ヘビー級王座決定戦だった。1週間後の3・20蔵前国技館では両者リングアウトで初防衛を果たし、猪木を“返り討ち”に。本欄が掲載される2021年3月20日から数えると、今からちょうど46年前の出来事である。今回は、NWF世界ヘビー級王座を巡る猪木とシンの抗争が激化した75年のプロレス界を振り返る。
猪木がジョニー・パワーズを破りNWF世界ヘビー級王座を初めて獲得したのは、73年12月10日の東京体育館だった。翌74年には3・19蔵前でストロング小林、10・10同所で大木金太郎と日本人大物選手を立て続けに破りベルトの価値を高めた猪木は2月6日、NWF本部から「シンの挑戦を受けよ」と通告される。しかし猪木はこれを拒否し、12日に返上を発表した。その後、カール・ゴッチが来日し説得にあたると、王座を空位として、改めて猪木とシンでベルトを争うこととなる。そこで勝利したのが、シンだった。
シンは1週間後に初防衛に成功し、新日本は4月4日蔵前で「第2回ワールドリーグ戦」に突入。猪木が5・16日大講堂でキラー・カール・クラップを破りV2を達成すると、3日後、カナダのモントリオールでシンの王座に挑戦した。試合では猪木が勝利を収めたのだが、反則裁定によりベルトの移動はなし、シンの防衛となったのである。
5月30日には前年、猪木との名勝負を繰り広げた小林が新日本入団を発表、後楽園ホールの所属第1戦でアンドレ・ザ・ジャイアントと引き分け、その後、新日本ナンバー3としてのポジションを築くこととなる。小林はこの年のはじめからフリーとして新日本にシリーズ参戦していた。
6月9日にはプロボクシングのモハメド・アリが日本に立ち寄り記者会見。ここで猪木の代理人が書状を手渡し、翌年6月26日、日本武道館「格闘技世界一決定戦」への道がスタートする。猪木は6月26日、つまり猪木VSアリのちょうど1年前、シンのNWF世界ヘビー級王座に3度目の挑戦。バックドロップの連発からピンフォールを奪い、タイトル奪還に成功した。シンはベルトを奪われたものの、この試合は対猪木のベストマッチとの呼び声が高い。