【ズバリ!近況】恋愛、父の大病…香港戻ったチューヤン「少し疲れた」笑顔求め、Twitterで朋友と同じ290日の「旅」に

1998年、人気バラエティ番組「進ぬ!電波少年」(日本テレビ系)の企画で、俳優の伊藤高史(44)とコンビ「朋友(パンヤオ)」を結成し、アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイクの旅に挑戦した香港出身のチューヤン(48)。過酷な旅を生来の明るさと人懐っこい笑顔でやり抜き、旅終了後はカタコトの日本語を駆使して日本でタレントとして活躍していた。しかし、いつの間にやら見なくなり、チューヤンは香港に戻っていた。香港は今、不穏な情勢だが無事なのか。ツイッターを検索すると、チューヤンが日本語で発信していることを発見。ダイレクトメッセージを送り取材依頼し、リモートでチューヤンに話を聞いた。

カッコ良く変身しているチューヤン【写真:チューヤン提供】
カッコ良く変身しているチューヤン【写真:チューヤン提供】

リモートで香港に戻った理由を明らかに

 1998年、人気バラエティ番組「進ぬ!電波少年」(日本テレビ系)の企画で、俳優の伊藤高史(44)とコンビ「朋友(パンヤオ)」を結成し、アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイクの旅に挑戦した香港出身のチューヤン(48)。過酷な旅を生来の明るさと人懐っこい笑顔でやり抜き、旅終了後はカタコトの日本語を駆使して日本でタレントとして活躍していた。しかし、いつの間にやら見なくなり、チューヤンは香港に戻っていた。香港は今、不穏な情勢だが無事なのか。ツイッターを検索すると、チューヤンが日本語で発信していることを発見。ダイレクトメッセージを送り取材依頼し、リモートでチューヤンに話を聞いた。

 05年に引退して香港に戻りました。当時、僕は仕事に集中できないくらい恋愛に夢中になっていました。そんなとき、大好きなお父さんが病気になってしまって、お父さんのそばにいてあげたくなって戻ろうと決めました。僕のわがままで、僕は日本に7年間も行っていた。5人きょうだいの4番目で1人息子。とてもかわいがってくれた。香港に戻ったおかげで、お父さんの最後の3か月は、お父さんととても楽しい時間を過ごせた。お父さんは今も僕の心の中で生きてる。お父さんが使ってた水筒は、今も大切に使ってるよ。

日本語うまくなりすぎ、カタコト消える

 日本語がうまくなりすぎてしまって、日本に来たばかりのような“カタコトの日本語のチューヤン”を演じられなくなったことも、香港に戻った理由のひとつでした。だから香港に戻ったら、自分の一番の得意分野であるデザインをやろうと思いました。日本に行く前、香港の専門学校でデザインを勉強したのに、その学校の卒業生で広告のグラフィックデザインの仕事を専門にしていなかったのは僕ぐらいだったから。僕も自分の得意分野で力を発揮したかった。それで、ラジオ局「香港商業電台(香港コマーシャルラジオ)」のクリエイティブ・ディレクターになりました。

「香港商業電台」は香港、中国、マカオで聴取可能で、100万人以上が聞いている香港ナンバーワンのラジオ局。僕は番組企画、コピーライティング、宣伝全般を担当したほか、毎朝、ラジオ番組のDJもやっていたから表と裏の仕事、両方をやっていました。毎年1月1日に行われる香港最大級の音楽祭「叱咤楽壇流行榜頒奨典礼」のキャスティングや美術監督、宣伝なども手がけました。「叱咤楽壇流行榜頒奨典礼」を3~4年続けて、「もうこれ以上の舞台はできない」というものを香港のみなさんに見せられたので、「次の挑戦をしたい」と思って広告業界に挑戦しました。クリエイターとして、マクドナルドや銀行のテレビCMを制作しました。いいものをたくさん作りました。面白かった!

 広告代理店に誘われて、あちこちの会社でクリエイティブ・ディレクターやデザイン・マネジャーをやってきました。社員8人だった小さな広告代理店を、みんなで頑張って2年で28人にまで大きくしたこともあった。アジア最大級の展示会場「香港コンベンション・アンド・エキシビション・センター」に関するプロモーションを取り仕切った時は、米ニューヨークの広告に関する国際コンペの4部門で賞をいただきました。この受賞については香港の人たちも「香港の誇りだ!」と喜んでくれて、新聞に載ったりメディアでとりあげられたりして大きな話題になったよ!

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