宇崎竜童、愛妻・阿木耀子と約束した“人生の最期”「一緒に死ねたらいいね」
人生の最期語る「エレキサウンドをかき鳴らせる葬儀場を本気で探しています」
大変だったのは、死んでからのシーンだという。「脈をとって、『ご臨終です』という。その間、ずっと息をせずにいるんだけども、長くてね。素潜りの経験もないし、息ができない。監督は『ハリウッドでは、息ができるように布団に入れるカバーみたいのがあるんだけど、うちにはないから我慢してくれ』って。次の日は死に顔のアップから。瞳を動かすと、まぶたの上からでも分かるから、じっとしないといけない。ところが、あのとき、不覚にも『大人の百日ぜき』にかかっていたんです。監督もちょうど同じ病気にかかっていて、俺も監督もカメラが回ったら、せきしないように我慢。死に顔はドアップだったので、1ミリも動かしちゃいけない。ほかは全部監督の言う通りやっていれば、OKだったけど、死に顔だけは大変でしたね。撮影時は共演者だけでなくスタッフにも囲まれ、あんなにたくさんの人たちにみとられて臨終というのはいいなと思いました」。
映画初主演作「曽根崎心中」(1975年)以来、何度も死ぬ役は演じてきたが、自身の役の葬式シーンがあったのは初めて。「だいたいの役は死んでいますね(笑)。今はコロナ禍で、家族で内々で密葬みたいになっていますけど、それだけはしたくない。前からにぎやかな葬儀がいいねと話しています。映画では、木遣(労働歌)を歌いながら、仲間たちが棺桶を担いでくれるけど、僕は今まで関わったメンバー、音楽仲間たちがそれぞれのジャンルの音楽を葬式でやってくれたら。だから、仲間が先に死んじゃうとまずいんだよね。それが今の一番の心配事ですよ。エレキサウンドをかき鳴らせる葬儀場を本気で探しています。青山斎場は大丈夫みたいですけど」と笑う。
阿木とは今年結婚50周年だ。「阿木とは5年前から、終末医療の話もするようになりましたよ。一緒に死ねたらいいね、一生一緒にいようね、と。ただ、思っていた以上に長生きしてしまっていたので、最近、阿木は、『先に死なないで、ちゃんと私を見送ってくれ。それが、夫の愛情というものじゃないでしょうか』って、脅迫的なことを言っています(笑)。だから、『ちゃんと健康には留意して欲しい。バランスの良い食事は私が作りますから。陰でコソコソ甘いものを食べたり、寝る前にベッドでジャンクフードを食べないように』って。菜食主義じゃないけど、8割は野菜。俺が健康でいるのは食事のおかげ。酒は飲まないから、甘いものにいっちゃうんだよね」。もう一つの健康の秘けつはストレッチ体操だそうで、背筋がすっと伸びた立ち姿はダンディーだった。
□宇崎竜童(うざき・りゅうどう)1946年2月23日、京都府出身。73年、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドでデビュー。「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が大ヒット。妻の作詞家の阿木燿子とのコンビで、山口百恵など数多くのアーティストに楽曲を提供する。傍ら、俳優としては、映画「曽根崎心中」で初主演。高橋伴明監督の第一回商業作品「TATTOO<刺青>あり」で主演として参加。主な出演作品は「その後の仁義なき戦い」「駅 STATION」「上海バンスキング」「どら平太」「罪の声」など多くの作品に出演。