石原プロ、58年の歴史に幕 十七回忌や「西部警察」…裕次郎さん亡き後も残した伝説

故・石原裕次郎さんが創業した「株式会社石原プロモーション」が1月16日、解散し、58年の歴史に幕を閉じる。今後は俳優の所属契約をなくし、舘ひろしらは独立、移籍する見込み。業務については、株式会社石原音楽出版社が音楽・映像遺品、肖像権などの管理・展示業務など、一般社団法人ISHIHARAが遺品などの保管・維持管理にあたる。

1964年当時の故・石原裕次郎さんと、妻・石原まき子さん(女優名は北原三枝)【写真:Getty Images】
1964年当時の故・石原裕次郎さんと、妻・石原まき子さん(女優名は北原三枝)【写真:Getty Images】

石原プロ解散へ 商業を裕次郎さんに返還へ 今後は俳優の所属契約をなくす

 故・石原裕次郎さんが創業した「株式会社石原プロモーション」が1月16日、解散し、58年の歴史に幕を閉じる。今後は俳優の所属契約をなくし、舘ひろしらは独立、移籍する見込み。業務については、株式会社石原音楽出版社が音楽・映像遺品、肖像権などの管理・展示業務など、一般社団法人ISHIHARAが遺品などの保管・維持管理にあたる。

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 この日は1963年の創業日にあたり、東京・調布の同社で、俳優以外の社員が商業を裕次郎さんに返還する式典を行う。新型コロナウイルス禍でもあり、マスコミ、関係者などは集めず、粛々と執り行う意向だという。

 裕次郎さんが亡くなったのは1987年7月17日。「俺が死んだら即会社をたたみなさい」との遺言を残したが、故・渡哲也さんを始めとする俳優、スタッフが奮闘。この姿に胸を打たれた裕次郎さんの妻、石原まき子さんは遺言を果たせず、その看板を下ろすことができなかった。

 私は新聞社時代の2000年代に石原プロを担当。「新人発掘オーディション~21世紀の石原裕次郎を探せ!~」(00年)、裕次郎さんの十七回忌(03年)、スペシャルドラマ「西部警察 SPECIAL」(04年)、石原慎太郎さんが裕次郎さんの生涯を描いた「弟」(04年)、青森県大間町のマグロ漁師をモデルにした「マグロ」(07年)などを取材した。

 裕次郎さんの亡き時代を支えたのが石原プロの番頭、小林正彦さん(当時専務)だった。小林さんは元日活ホテルのフロントボーイ。その後、日活撮影所勤務となり、裕次郎さんの目にとまり、石原プロ入り。石原プロのお祭好き、ド派手演出のほとんどは小林さんの陣頭指揮によるものだった。

 その小林さんの話を聞くのが好きだった。豪快、痛快。その裏側には人生哲学に満ちていた。事故で連続ドラマが制作中止となった「西部警察」のスペシャル版の爆破シーンにも同行した。人里離れた鉱石所で建物が大爆破するというものだった。爆破地点は遥か遠くだったが、熱風が体に届き、一面に油の匂いが充満する。記者たちが興奮し、驚く姿を満足そうに見ていた小林さんに、どうして爆破が「西部警察」の名物になったのかを聞いた。

「爆破があると、話が多少つまらなくても、もたすことができるんだ。電車やビルとか、普段みんなが目にしているものが爆破するというのは無条件で面白いだろ」と笑う。

 記念すべき第1話(1979年)には、銀座のド真ん中を装甲車が走るシーンもあった。放送枠の日曜午後8時は視聴率激戦区。「視聴率を取るためには派手な仕掛けが必要だと考えたんだよ。本当は戦車を走らせようと思ったが、道路交通法の関係で戦車は一般道を走らせることができなかったんだ」

「マグロ」では、本物のマグロを丸ごと一本、新聞読者にプレゼントするという企画もあった。マグロは重さ約70キロ、400人前。これをプレゼントの品とする人は普通いない。こうした企画は一重にファンを楽しませたい、というエンターテイナー精神だった。「人を驚かせるには、人がバカバカしいと思うくらいのことをやらないとダメなんだよ。感動してもらうには、作り手が本気になって、いっぱい汗をかかないといけない。視聴者は人が汗をかく姿に感動するんだ」。

 石原プロの名物と言えば、炊き出し。阪神淡路大震災など被災地などを訪問し、多くの人に喜ばれた。ここには、「物作りに大事なのは食事」という小林さんの考え方があった。ドラマや映画の現場では、「ロケ弁」が普通だが、石原プロは温かい料理を提供する。どんなに過酷な現場でも、温かい料理があれば、スタッフ、キャストは喜ぶ。まずは胃袋から、心をつかめ、というわけだ。

 被災地への慰問には「西部警察」の全国ロケが背景にある。北海道から鹿児島まで総計1万5000キロを縦断。撮影協力のお礼に炊き出しをふるまった。この時の感謝の思いとノウハウが綿々と続いているのだ。料理、炊き出しは美味しかった。一方、困ったこともあった。その量が半端ではなかったのだ。小林さんは「どんどん食べて」と勧める。「俺は人がおいしいものを食べて、喜んでいる姿を見るのが好きなんだよ」とうれしそうに言う。そんな笑顔を見ると、無理しても胃袋に入れた。

 常識外れと言えば、小林さんが手配してくれる会社への「おはぎ」の差し入れや手土産は半端ない量と重さだった。ある時は調布の事務所で、裕次郎ブランドの焼酎1ケースをいただいたこともある。しかし、これを持って、1時間以上電車を乗り継ぐのは一苦労だった。思い切って、その理由を聞いたことがある。「軽いものを差し上げても、忘れられちゃうから。ずしっと重い物はいつまでも忘れないからね」。確かに。

 その小林さんも11年に健康上の理由で専務を退任し、16年10月には虚血性心不全で亡くなった。ここ10年も、解散説は何度かうわさに上ったが、俳優、社員の頑張りによって持ちこたえた。解散は昨年7月の裕次郎さんの命日にまき子さんの名前で正式発表。さらに8月10日には渡さんが78歳で死去。家族葬がすべて終わった段階で公表された。

 石原プロと言えば、ド派手が売り物だけに、その幕引きには寂しさも感じるが、これも時代の流れだろう。唯一の心残りは、毎年の抱負のように語られていた映画製作がかなわなかったことだ。ただ、裕次郎さんの姿、その後の石原プロの歩みは確実に人々の心に焼き付いているはずだ。

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