【追悼・小松政夫さん】「本当に幸せ者です」植木等という親父に育てられた昭和の喜劇人
僕は植木の親父から2度も送りだしてもらう場面があったんです。本当に幸せ者ですよ
──付き人をされていた頃、植木さんは小松さんのことをあちこちで売り込んでくださったそうですね。
「テレビ局なんかでも会う人ごとに『こいつ面白いんだ』なんて言ってくれて。本当に短い間に『シャボン玉ホリデー』のレギュラーにしてもらったり、映画でも役をいただいたり。東宝の映画では忘れもしない『大冒険』という作品で、植木がバイクに乗ってジャンプするシーンがありまして。そのシーンだけ代役を務めるアクション専門の人が現場を見て『自分には出来ません』って帰っちゃった。あまりにも危険だっていうんで。それで監督が困っていたから、私が『自分がやります!』って手を挙げちゃったんですね。実際ケガしましたけど、なんとか撮り終えたら、監督の古澤憲吾さんが『よくやった』と労ってくれて。以来いい役をくれるようになった。
それもこれもすべては親父のおかげですよ。植木等という大スターに付いていたからこそ、いろんな人に名前を覚えてもらい、独立することが出来た。ある日、いつものように植木を車に乗せて運転していたら、『お前はもうオレのところに来なくていい』って言われて。一瞬クビなのかと思ってぼう然としていたら、『会社に言っておいたから。明日からは渡辺プロのタレントとして独り立ちして頑張れ』って。もう泣きましたね」
──「親父の名字で生きてます」というのは、実際のお父上と同時に当然のごとく植木さんへのオマージュでもあるわけですよね。
「レコーディングで本番前に稽古してたときにボソッと、『親父さん、また逢いてぇなあ』なんていう台詞を呟きましたら、『それ入れたい』って言われて。そうしたら最後もまた入れなきゃってことで、『もーぉ、たまんないっすよぉ』って言ったらそれもまたそのまま入っちゃったんですよね(笑)。『アンタはエライ!』ってところはもう少し穏やかに言った方がいいんじゃないかと思ったんですけど、そこはやはり小松節でやらなきゃダメだという人が圧倒的に多くて。これは完全にオリジナル。しかし、もしも今、親父が生きていて、私が喜劇人協会の会長をやってるのを見たらどう思いますかね。
ああいう組織だったところは絶対に嫌いな人でしたからね。私が事務所を辞めるときに、『自分は何度も辞めようと思ったが出来なかった。お前は好きなようにやれ』っていうんで、ものすごく背中を押してもらった。会社の上層部の人間を呼んで、『小松がウチを辞めても、意地悪するとかそういうことが耳に入ったら俺にも覚悟があるからな』と、そこまで言って出してくれたんですから。『俺は最近仕事があまりなくて家でテレビばっかり見てるけど、そんなときにお前が活躍してるのを見ると誇らしいよ。よーし、俺ももう一発やらなくちゃと思うんだ』と言われたときにどーっと涙が出てきて。便所に駆けこんで号泣しました。だから僕は植木の親父から2度も送りだしてもらう場面があったんです。本当に幸せ者ですよ」
──改めて今回のレコーディングを振り返られていかがでしょうか。
「一生懸命聞いて聞いて聞きまくって臨みましたら、これは朝までかかるんじゃないかと思ってたんですよね。すると歌いすぎると声が潰れるし、レコーディングの技術も進歩してるからいいとこどりで大丈夫って言われたんですが、結局11回通しでテストしてから本番に臨んだんです。だから全部で15回くらいは歌ったんじゃないですか。現場の様子は『電線音頭』の頃とはまるで変わりましたですね。スタジオの設備にしても昔は無かったような機械がズラーッと並んでました。『どんなことが出来るんですか?』って聞いたら、1行ずつ歌って良かった部分だけをつなぐって言うから、『私が今度歌うときに困るので、張り合わせは勘弁してください』って言いました。『しらけ鳥音頭』なんかは本当にそのまんまでしたから」
──「しらけ鳥音頭」は『みごろ!たべごろ!笑いごろ!!』の名物コーナーでしたね。
「あの曲では『ヒット賞』というのをいただいたんです。歌手の方々に混じりましてね。そうしたら番組で一緒だったキャンディーズがお祝いしてくれて。いただいたプロンズ像を持って一緒に撮った写真がどこかにあるはずなんですが。しばらくは洒落でそのブロンズ像を背中に背負ってコントをやってた覚えがありますよ。『いいかげんにそれ外しなさい』とか言われて(笑)。まあ今回の曲はあの頃のものとは質が違うかもしれませんが、『古いやつだとお思いでしょうが、古いやつほど新しいものを欲しがるものでございます』(物真似入る)なんていう時代が来ちゃったのかなあという気がしないでもないですけどね。そういった意味でも今は胸に沁みるような歌が少ないように思いますね」
──これを機会に、小松さんが過去に出されたアルバムも復刻していただきたいです。『冠婚葬祭入門』は傑作だと思います。
「宮川泰さんが作って下さった『小松の親分さん』という曲もあのアルバムに入ってたんですよね。裏話をすると、いざレコーディングというときにスタジオのスタッフが組合のストライキに入っちゃって、大変だった覚えがあるんです。だから正直なところあまりいい環境で臨んだ録音じゃなかったんですが、その分愛着もありますよ」
──「小松の親分さん」にはモデルがいらっしゃったとか?
「ええ。あれはもう大昔の話なんですが、店で飲んでいたら “あちらの親分さん” が近付いてきまして、奥さんがファンだからとにかく家に来てくれって言われましてね、当時はコワくて断ることが出来なくて参ったなぁと思いながら連れて行かれて。『おい、小松ちゃん来てくれたぞ!』なんてね。その親分の仕草とか言葉がすごく特徴的だったものでそのときのことを忘れられず、なんとなく真似しているうちに持ちネタになっちゃったんです。私の流行り言葉ってのはだいたい実在する人がいて。その人たちが言ってることを横から聞いて盗んだり、ちょっとデフォルメしたものが多いんですね。例えば、『どうして! どうしてなの! おせーて!』というのは、セールスマン時代の私の上司で、フレーズを繰り返すパターンが多いですよ。『もーイヤ、もーイヤこんな生活!』、『どーして! どーしてなの!』なんていう。皆さんが思う小松といえばやっぱりこの辺なんでしょうね。今回はちょっと真面目に歌ってますから、聞いてくださいね。(淀川長治の物真似で)『サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ』」
□小松政夫(こまつ まさお)1942年1月10日、福岡県生まれ。本名・松崎雅臣。植木等の付き人を経て、日本テレビ系「シャボン玉ホリデー」でデビュー。60年代はクレージー・キャッツとの共演など、TV歌謡バラエティー全盛時で活躍。70年代には軽演劇出身の伊東四朗との掛け合いによるコント系バラエティーを中心とした笑い、さらに80年代には、タモリや団しん也、イッセー尾形など、ピン芸人たちとの交流で培ったサブカルチャーの要素が入った、洒落た感じの笑いでお茶の間を賑わせた。90年代以降は、数多くのドラマや映画に出演し俳優としての才能も発揮する。2011年6月20日、社団法人日本喜劇人協会10代目会長に選出されて以来、日本を代表する喜劇人としてTV、映画、舞台に出演して活躍を続けた。2020年12月7日没、享年78。