ビートルズの遺伝子を持った名曲集を30年かけて完成させた洋楽ディレクターの執念とポップ愛 (後編)

オリンピックイヤーの2020年は、ビートルズファンにとっては最後のオリジナルアルバム「レット・イット・ビー」が発表となり、バンド活動が幕を閉じてから半世紀、そしてジョン・レノンが亡くなって40年を迎える。そんなメモリアルイヤーを前に、「これってビートルズっぽくない?」と思わずリスナーをニヤリとさせるビートルズの遺伝子を持った楽曲ばかりを集めたコンピレーションCD「Power To The Pop」が11月27日リリースされた。音楽評論家の湯川れい子さんが発売日にツイッターで絶賛するなど、音楽ファンの間でも話題のCDについて、担当ディレクターのソニー・ミュージック白木哲也さん(55)に制作裏話を聞く全2回のインタビューシリーズ。前編は、そのユニークな中身やビートルズのDNAについて語ってもらったが、後編は苦節30年の道のりや日本のコンピレーションCDのこれからを聞いた。

何度挫折してもこの企画だけは30年間、片ときも忘れることがなかったと語った白木氏
何度挫折してもこの企画だけは30年間、片ときも忘れることがなかったと語った白木氏

ビートルズの遺伝子を集め始めたのは高校時代

 オリンピックイヤーの2020年は、ビートルズファンにとっては最後のオリジナルアルバム「レット・イット・ビー」が発表となり、バンド活動が幕を閉じてから半世紀、そしてジョン・レノンが亡くなって40年を迎える。そんなメモリアルイヤーを前に、「これってビートルズっぽくない?」と思わずリスナーをニヤリとさせるビートルズの遺伝子を持った楽曲ばかりを集めたコンピレーションCD「Power To The Pop」が11月27日リリースされた。音楽評論家の湯川れい子さんが発売日にツイッターで絶賛するなど、音楽ファンの間でも話題のCDについて、担当ディレクターのソニー・ミュージック白木哲也さん(55)に制作裏話を聞く全2回のインタビューシリーズ。前編は、そのユニークな中身やビートルズのDNAについて語ってもらったが、後編は構想30年の道のりや日本のコンピレーションCDのこれからを聞いた。

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――白木さんのビートルズとの出会いをお聞きしたいのですが。

「僕は中学校までは伊豆大島に住んでおりまして、まあ「洋楽不毛の地」だったわけですね。野球少年でしたから将来はジャイアンツのショートになりたくて、毎日練習に明け暮れていたのですが、中学2年のときに、東京に旅行に行った時のお土産でビートルズの『青盤』を買って、次に東京に行くまでの半年間、ずっとそれだけ聞いていたんです。まるでビートルズのデビュー当時のファンみたいに、丸坊主の野球少年がビートルズに衝撃を受けて、そこから人生が変わっちゃいましたね。そして高校に入って、東京に出てきて、音楽をむさぼるように聴き始めた頃の高校1年生のときにポール・マッカートニーが捕まって、その年の暮れにジョン レノンが亡くなって・・・あの年の衝撃は大きかったですね」

――ビートルズ遺伝子の曲集めは、その頃からはじまっていたんですか?

「高校時代は純粋にビートルズが好きで、ラジオを聞いたり、街を歩いているときに、ふと聞き慣れたメロディーのようで、そうじゃない曲に出会うと、急に立ち止まる瞬間があって、たぶんそれが僕にとっての『BeatleDNA』だったんでしょうね。メロディーやサウンドが、なんかちょっと引っかかるもの、そういうのを集め出したんです」

――それでレコード会社に入って?

「大学を卒業したら業界で働きたいと思っていたんですが、なかなか募集している会社がなくて、最初は西武百貨店の外商担当をしていたんですけど、新聞広告の中途採用を見て、ブルース・スプリングスティーンに衝撃を受けたってこともあって、CBSソニー(当時)に入ったんです。本当はビートルズの東芝EMI(現ユニバーサルミュージックジャパン)に行きたかったんですが(笑)」

『Power To The Pop』のジャケット写真。DNAがここにも詰まっている
『Power To The Pop』のジャケット写真。DNAがここにも詰まっている

企画から発売までの苦節30年

――そこで高校の頃から温めてきた「BeatleDNA」の企画を入社時から考えていたんですね?

「そうですね。この会社に入る前から漠然とですが、こういうことがしたいって思っていて、面接でも話した記憶があります。ここに入ったら実現できるかなと思っていたんでしょうね。ところが…」

――ところが?

「何回も何回もこの企画をトライしようとしたんですが、90年代ってレコード会社間のカタログ楽曲の貸し借りがまだ難しかったのと、自社の音源だけで作ろうとしてもなかなか自分の納得いくものが作れなかった。インターネットが普及する前の話だったので、楽曲使用の許諾を取るのもものすごく時間のいる作業で、途中で本当に何回も何回も挫折してるんです。企画が通ったら、今年こそ出そうと思っていたものの、そのたびに挫折して・・・。入社して以来これまで、ほぼ毎年のように考えていましたから」

――企画を通すにも収録曲が決まらないと会社としての数字も決まらないし、かといって先に許諾を取っても、形にならなかったら、水の泡ですし。

「そうですね。だからとりあえずゴーは出すんですが、何回も企画書を書いては潰れるみたいな。ようやく形になりそうだという場面もこれまで何度もありましたけど、日本企画のコンピレーションCDを出す場合、収録曲の半分以上は自社音源にしないとならないんですね。それをクリアしないと他社の音源をお借りすることができないんです。そこで自社音源だけでなくサードパーティー契約(海外のソニー音源ではなく、直接契約する形)で音源を探すんですが、そうやすやすと簡単に話は進まない。だからその並行作業も含めて、いろんなドキドキ感がありました」

――この作業をこれまで社内では白木さんおひとりでやってこられたんですよね?

「そもそも僕が企画したものですし、そのリスクはすべて自分で背負ってやるということですよね。だからメインの仕事が入ってくると、後回しになって、また振り出しに戻される」

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