【プロレスこの一年 ♯19】馬場&猪木のBI砲誕生 柔道日本一の坂口征二がプロレス転向 1967年のプロレス

本欄が掲載される11月7日は、今から53年前の1967年(昭和42年)、日本テレビの独占状態だったプロレス中継に対し、TBSがくさびを打ち込んだ1日でもあった。この年、テレビのプロレス中継といえば日本プロレスを放送する日本テレビの専売特許状態だったが、新団体・国際プロレスの誕生によりテレビ局の思惑が重なり状況が変化。そのきっかけとなった国際は前年に旗揚げを発表、67年1月に旗揚げ戦を行った。実際にTBSが中継を始めたのは翌68年1月からだが、プロレス界にとって67年とはいったいどんな1年だったのか。

馬場と猪木(写真は昭和58年度プロレス大賞受賞式)【写真:平工 幸雄】
馬場と猪木(写真は昭和58年度プロレス大賞受賞式)【写真:平工 幸雄】

東京プロレスの崩壊で日本プロレスと国際プロレスの2団体時代に突入

 本欄が掲載される11月7日は、今から53年前の1967年(昭和42年)、日本テレビの独占状態だったプロレス中継に対し、TBSがくさびを打ち込んだ1日でもあった。この年、テレビのプロレス中継といえば日本プロレスを放送する日本テレビの専売特許状態だったが、新団体・国際プロレスの誕生によりテレビ局の思惑が重なり状況が変化。そのきっかけとなった国際は前年に旗揚げを発表、67年1月に旗揚げ戦を行った。実際にTBSが中継を始めたのは翌68年1月からだが、プロレス界にとって67年とはいったいどんな1年だったのか。

 新団体・国際の船出は1月5日&6日、大阪府立体育会館での2連戦だった。まずはこれに先立つ前年の10月、旗揚げシリーズ中の東京プロレス、アントニオ猪木が国際の訪問を受け、選手貸し出しの要請を受けていた。猪木は返事をいったん保留するも、11月29日に東プロのオフィスにて国際の吉原功社長が会見、1月の旗揚げシリーズに東プロ勢が参戦することが発表された。年末には豊登が国際への参戦を拒否するハプニングもあったが、猪木らは国際のシリーズに参戦。1・5大阪での旗揚げ戦ではダブルメインの第1試合として猪木がエディ・グラハムと対戦して勝利。真のメインでは2日前に来日したばかりのヒロ・マツダがダニー・ホッジのNWA世界ジュニアヘビー級王座に挑戦、60分フルタイムの引き分けで、マツダの王座奪取はならなかった。翌日にはマツダと猪木がタッグでメインに登場。グリズリー・スミス(ジェイク“ザ・スネーク”ロバーツの父)&ルーク・ブラウン組を破り、NWA世界タッグ王座の防衛に成功した。

 その2日後、猪木が豊登を業務上横領で提訴した。翌日には豊登と新間寿営業部長が背任容疑で猪木を逆提訴。東プロの興行は結果的に昨年12月19日の東京体育館が最後となり、リング外のもめごとが泥仕合の様相を呈するようになる。

 東京プロレスの崩壊により、日本マット界は本家・日本プロレスと新興・国際プロレスの2団体時代に突入した。国際の旗揚げシリーズは全20大会が開催され、最終戦は1・31仙台。前日の横浜文化体育館では猪木がジョニー・バレンタインを相手にUSヘビー級王座を防衛。マツダはホッジのベルトに再挑戦も、引き分けでまたもや王座奪取には至らなかった。結局、東プロを崩壊させてしまった猪木の国際出場は、旧・東プロ勢を含め、1シリーズのみに終わっている。

 旗揚げシリーズが低調に終わった国際に対し、日プロは元・柔道日本一の坂口征二のプロレス転向を実現させた。坂口は2月17日に日プロ入団を発表。翌68年のメキシコオリンピックで柔道が種目から外されたことにより、プロレスへの道を選択したのである。

 翌3月には大物外国人ブルーノ・サンマルチノが日プロに初来日。3・2大阪から6日間の特別参戦で、初日にはジャイアント馬場といきなりシングルで対戦した。「人間発電所」の異名をとるWWWF世界ヘビー級王者は馬場のインターナショナル王座に挑戦、3本勝負を1-1のスコアで引き分け、馬場が辛うじて9度目の防衛に成功した。来日最終戦の3・7蔵前国技館でもサンマルチノには馬場との一騎打ちが用意され、今度は60分戦い抜いてのドロー。この試合にも馬場のインター王座が懸けられており、王者10度目の防衛となった。

 4月6日には、猪木の日プロ復帰が明らかになった。翌7日、後楽園ホールでの「第9回ワールドリーグ戦前夜祭」には猪木がスーツ姿で登場。外国人レスラーに襲撃された馬場を救出し、古巣復帰を大々的にアピールしてみせたのである。猪木は「ワールドリーグ戦」中の5・5鳥取で日プロ復帰戦。5・12岐阜では馬場との初タッグを実現させた。馬場&猪木、“BI砲”の誕生である。

 同期のパートナーを得た馬場は、5・17横浜文体でザ・デストロイヤーを破り、ワールドリーグ戦V2を達成した。また、5・26札幌では空位のアジアタッグ王座決定戦が行われ、猪木が吉村道明とのコンビでワルドー・フォン・エリック&アイク・アーキンス組を破り同王座初戴冠。復帰から3週間後の王座奪取というスピード戴冠だった。

 旗揚げシリーズ後、話題を欠いていた国際だが、6月になると7月から8月にかけての第2弾シリーズ開催を発表。7・27金山で日本初のマスクマン、覆面太郎がデビューした。正体は、のちのストロング小林である。

 新興の国際は日プロに大きく水をあけられていたのだが、8月14日には日プロとの興行戦争「大坂夏の陣」が勃発。実際には国際の大阪府立体育会館に日プロが大阪球場大会をぶつけた形で、動員数でも日プロが圧勝。日プロは馬場がジン・キニスキーとの60分フルタイムに延長5分を加えたドローでインターナショナル王座14度目の防衛。翌日にはアメリカで行われたNWA総会において、日プロの加盟申請が承認された。日プロでは9月に山本小鉄と星野勘太郎のヤマハ・ブラザーズが凱旋帰国、10月には大熊元司と小鹿雷三(グレート小鹿)がアメリカへの武者修行に出発、海外との交流を積極的に行った。

 そして、10・31大阪では馬場&猪木のBI砲がビル・ワット&ターザン・タイラーを破りインターナショナルタッグ王座を奪取。馬場は同月初め、吉村とのコンビで失ったベルトの奪回を新チームで果たしたのである。また、猪木はインタータッグ奪取によりアジアタッグは返上することとなった。

 そして11月7日、TBSが国際のテレビレギュラー放送を翌年1月にスタートさせると発表した。すると、カール・ゴッチを専任コーチに招いた日プロが“TBSプロレス”に対抗。68年1月の新春シリーズを前倒しし、12月29日に後楽園で開幕、日本テレビがその模様を生中継で放送するという異例の措置だった。1月3日には日プロが蔵前国技館、国際が日大講堂大会を開催、「隅田川決戦」と呼ばれた同日興行戦争で、68年のプロレス界がスタートを切った。日プロの日本テレビ、国際のTBS、ともに30%以上という高視聴率を記録したのだった。(文中敬称略)

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