【プロレスこの一年 ♯17】アントニオ猪木が旗揚げした団体「東京プロレス」とは? 1966年のプロレス界を振り返る

全日本プロレス日本武道館大会(93年10月23日)にゲストとして来場したフリッツ・フォン・エリック【写真:平工 幸雄】
全日本プロレス日本武道館大会(93年10月23日)にゲストとして来場したフリッツ・フォン・エリック【写真:平工 幸雄】

「板橋事件」試合開始後に中止になり、警察と機動隊が出動する騒ぎに

 猪木VSバレンタインは10・25宮城県スポーツセンター、11・19大阪球場、11・22大田区体育館(旗揚げシリーズ最終戦)でもバレンタインが持ってきたUSヘビー級王座を賭けて実現。バレンタインの防衛、猪木の奪取、猪木の防衛という形でベルトが移動した。なお、旗揚げシリーズには新日本で猪木の好敵手となるジョニー・パワーズも来日していた。

 旗揚げシリーズは全32大会が予定されていたものの、実際には20大会の開催にとどまった。キャンセルされたもの以外にも、とくに悪名高いのが、11月21日、板橋区駅前広場大会が試合開始後に中止になったハプニングである。これは「板橋事件」として一般紙でも報道された。イベント開始の6時半を過ぎても試合は行われず、7時をまわってから中止が発表されたのだ。大会は11月下旬の屋外会場とあって待たされた観客が暴徒化、リングに火がつけられ警察と機動隊が出動する騒ぎとなった。原因はプロモーターのギャラ未払い発覚による東プロのボイコット。プロモーター側は豊登に内金を払っていると反論したのだが……。

 この時、猪木と豊登の間にはすでに溝ができていたと言われており、豊登のギャンブル依存症が団体経営に大きな影を落としていた。旗揚げ第2弾となる「チャンピオン・シリーズ」は12月14日から19日の東京体育館まで全5戦を開催するも、20日には猪木が別会社を設立、豊登と決別する意志を明らかにした。結局このシリーズが東プロ最後のツアーとなった。東プロは旗揚げ前の国際プロの要請を受け、翌67年1月に猪木が参戦するなどしたが、東プロとしての興行はわずか2シリーズで終焉。豊登が主導し猪木をエースとした東プロは、時代の徒花で終わってしまったのである。東プロの最後の試合は、猪木VSスタン・スタージャックのUSヘビー級選手権試合、猪木の防衛だった。

 年明け、猪木が豊登を業務上横領で告訴した。これに対抗し豊登と新間が猪木を逆提訴、両者の関係は泥沼に……。しかし、新日本旗揚げ戦(72年3月6日)では新間の仲介から豊登が恩讐を乗り越えサプライズ登場を果たすこととなる。

 東プロの内部分裂をよそに、日プロではリキパレスを失うも馬場のエース体制がより強固になった。11・28大阪では馬場が初来日のフリッツ・フォン・エリックをリングアウトで破りインターナショナル王座防衛に成功。12・3日本武道館では馬場がエリックを返り討ち。吉村道明&馬場組が返上し空位のアジアタッグ王座は、吉村&大木組が奪取し第18代王者となった。ここまで王者組にはトロフィーが授与されていたが、ここからはベルトに。アジアタッグは、今年11月で設立から65年を迎える、日本最古の現存するタイトルである。また、日本武道館で初めてプロレスの興行が行われたのも、この試合である。(文中敬称略)

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