【プロレスこの一年 ♯17】アントニオ猪木が旗揚げした団体「東京プロレス」とは? 1966年のプロレス界を振り返る
“燃える闘魂”アントニオ猪木は今年でデビュー60周年。記念の会見が9月に行われ、60回目のデビュー記念日である9月30日から21年9月29日までの1年間をアニバーサリーイヤーとして位置付けることが発表された。向こう1年間にわたり、猪木に関するさまざまなイベントが開催されるという。
1966年(昭和41年)アントニオ猪木が「東京プロレス」の旗揚げを発表
“燃える闘魂”アントニオ猪木は今年でデビュー60周年。記念の会見が9月に行われ、60回目のデビュー記念日である9月30日から21年9月29日までの1年間をアニバーサリーイヤーとして位置付けることが発表された。向こう1年間にわたり、猪木に関するさまざまなイベントが開催されるという。
猪木(猪木寛至)のデビューはジャイアント馬場(馬場正平)と同じ1960年9月30日、日本プロレス、東京・台東区体育館での大木金太郎戦だが、66年には馬場がエース体制の日プロを離脱し東京プロレスを旗揚げした。23歳の若さでエース兼社長の座を得る道を選んだのである。しかし、東プロの活動期間は実質この年のみに終わった。のちに新日本プロレスを旗揚げするのも東プロの失敗あってこそなのだが、それにしても猪木が初めて挑んだ新団体は極めて短命だった。では、東プロが産声を上げ、終焉も迎えた66年(昭和41年)とは、プロレス界にとってどんな一年だったのか。
まずは年頭の1月5日、日プロが豊登の社長&選手会長辞任を発表。後日、芳の里が代表取締役、馬場が取締役選手会長に就任した。
しかし2月には、会見が行われた日プロの本拠地リキパレスの売却が報道され、実際、半年後には売却。11月18日に同所での最終興行が行われ、12月からは東京・後楽園ホールを常打ち会場として使用するようになった。今までは「プロレスの聖地」と呼ばれる後楽園ホールだが、元をたどれば日プロ常設会場売却にたどり着く、ということになるのだろう。
日プロを追放された豊登は、新団体設立に動くようになる。3月20日には「太平洋上の略奪事件」と言われた豊登の猪木引き抜きが勃発する。豊登がハワイにて「いま帰っても馬場の下になるだけ」と説得し、猪木もこれに応じたのだ。これを知った日プロはまだ籍のあった豊登を正式に除名し、引き抜きを強く非難した。
その日プロは猪木不在のまま「第8回ワールドリーグ戦」を開催。3・26蔵前国技館で開幕するも、事件の影響で観客動員には苦戦した。最終戦は5・13東京体育館で、馬場がウイルバー・スナイダーを破り初優勝を飾っている。
豊登と猪木は4月23日に海外から帰国し、新団体発足を宣言。6月3日にはのちに“過激な仕掛け人”と呼ばれるフロントの新間寿を交え、東京プロレスの旗揚げを発表した。
猪木は8月になると旗揚げシリーズに参戦する外国人選手発掘のため渡米。しかし、日プロの妨害を懸念し行き先は公表しなかった。そして9月30日、旗揚げシリーズの全貌が発表された。また、この日には吉原功が「プロレス第三勢力」を画策中との報道がなされた。これが、のちの国際プロレス。吉原は10月6日、IWE(インターナショナル・レスリング・エンタープライズ)の発足を正式にアナウンスした。東プロ旗揚げを前にして、日本に3つめのプロレス団体ができることになったのである。
東プロは10月12日、蔵前国技館にて大々的に旗揚げ戦を開催。メインイベントが2試合行われ、先に豊登がタッグマッチに登場。事実上のメインは猪木VS“妖鬼”ジョニー・バレンタインの一騎打ちだった。試合は猪木が新技アントニオ・ドライバー(フロント・ネックチャンスリー・ドロップ)からリングアウトで勝利。現在でも猪木屈指の名勝負と言われる戦いはノーテレビで映像が残っていない。正真正銘、“伝説の試合”である。