元光GENJI・山本淳一が語る人気絶頂の日々 駅はパニック、実家の車の下にファンの姿
7人組男性アイドルグループ・光GENJIとして、1980年代後半から90年代にかけて一世を風靡(ふうび)した山本淳一(54)が、再びステージに立った。長らく音楽活動から離れていたが、デビュー35周年の2022年に再スタートを切り、翌23年に光GENJIのメンバーだった佐藤寛之とユニット・ふたつの風を結成。今年は、5月17日に神奈川・ビルボードライブ横浜、6月13日にビルボードライブ大阪で内海光司をゲストに迎えたスペシャルライブを開催する。ENCOUNTでは、山本にインタビューを行い、前後編の2回にわたって半生を語ってもらった。前編は光GENJIまでの道のりと解散まで。

“光GENJI・山本淳一”の誕生前夜
7人組男性アイドルグループ・光GENJIとして、1980年代後半から90年代にかけて一世を風靡(ふうび)した山本淳一(54)が、再びステージに立った。長らく音楽活動から離れていたが、デビュー35周年の2022年に再スタートを切り、翌23年に光GENJIのメンバーだった佐藤寛之とユニット・ふたつの風を結成。今年は、5月17日に神奈川・ビルボードライブ横浜、6月13日にビルボードライブ大阪で内海光司をゲストに迎えたスペシャルライブを開催する。ENCOUNTでは、山本にインタビューを行い、前後編の2回にわたって半生を語ってもらった。前編は光GENJIまでの道のりと解散まで。(取材・構成=福嶋剛)
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光GENJIが解散から31年がたちました。振り返るとアイドル時代から始まり、解散してからは会社員として働いたり、体を壊したり……。いろんな時代を経験してきました。僕のウィキペディアにはプロレスラーという肩書きまであって、リアルタイムを知らない方には「いったいどんな人物なんだろう」って謎ですよね。そこで僕、山本淳一の54年間をお話したいと思います。
僕は八王子でとび職をしていた父親と母親、妹の4人家族の長男として生まれました。祖父もとび職だったので、幼い頃から職人気質の父親の大きな背中を見ながら、「大きくなったら自分も親父の会社を継ぐんだ」と思っていました。だから、自分がその真逆の華やかな世界に行くなんて思ってもいませんでした。
両親は20代前半で結婚して、母が21歳の時に僕が生まれました。音楽の趣味も近かったです。母は沢田研二さんの大ファンで、家にはポスターが貼ってあり、物心ついた頃からテレビやラジオで歌番組を一緒に楽しんでいました。そして、僕が10歳の頃に近藤真彦さんが大人気になり、台所で料理をしていた母親に「僕もマッチになりたい」って言ったことを覚えています。
学校に行くと前日にテレビで見たシブがき隊さん、一世風靡セピアさんの振り付けを、同級生の前で披露したり、風見しんごさんの『涙のtake a chance』でブレイクダンスを踊ったり、クラスの中ではひょうきんなタイプだったと思います。運動が得意で、八王子市内の陸上競技会に短距離走で出場したこともありました。その反面、アガり症でアイドルになってからも変わりませんでした。
初めてテレビの世界に挑戦したのは小学5、6年生のころ、『欽ちゃんの仮装大賞』(日本テレビ)でした。お坊さんの格好をして、上からたわしとかいろんなものを落として滝行をするみたいな仮装を考えて友達と2人でオーディションを受けたら補欠合格しました。残念ながらテレビに出ることはかないませんでしたが、人を楽しませる面白さみたいなものを子どもながらに感じていました。

転機となった「ローラースケートはできる?」の問い
中学1年の時には、男闘呼組さんの番組(日本テレビ系『アイドル花組おとこ組』)で歌って踊れる子を募集していたんです。母に「僕もやりたい」と言うと、「いいけれど、自分で応募してみなさい」と言われ、文房具店で履歴書を買って家で書き方を教えてもらいながら郵便ポストに投函しました。母は子どものころから何でも挑戦させてくれましたけど、全て自分でやりなさいと教えられ、その後の自分の生き方にも大きな影響を与えてくれました。
運よく書類審査が通り、学校でやっていた歌まね、踊りまねの特技を生かしてオーディションを受けました。手応えはあったのですが、結果は落選でした。ところが翌日、その審査を見ていた方から電話が入り、「今から事務所のレッスンスタジオに来れるかな」とチャンスをいただきました。母に相談すると「あなたがやりたいなら1人で行きなさい」と言われ、八王子から六本木のスタジオへ向かいました。そこでレッスンルームの扉を開けると、何十人という“ジュニア”と呼ばれる人たちが踊っていて、僕はいきなり、前列の真ん中に立たされて「やってみなさい」と言われました。
「この子はいったい誰?」っていう顔でみんなに見られて、正直緊張しました。そこから毎週日曜日のレッスンが始まりました。突然入ってきたもんだから、周りとの距離を感じる日々が続きました。そんな中、その後の僕の人生でも恩人となる一生の友と出会いました。ヒロくん(佐藤寛之)です。不安だった僕に手を差し伸べてくれて、おかげで他の仲間と打ち解けることができました。
そんなレッスン生として約1年半を過ごしていた中学3年の時、今度は「ローラースケートはできる?」と聞かれました。「○○できる?」と声を掛けられた時がチャンスなんです。できるかできないかではなく「それをやる覚悟を君は持っているかな」と問われていたんです。ローラースケートなんて、ほとんどやったことはなかったけれど、即座に「できます」と答えて、オーディション会場となった後楽園のスケートリンク場に行きました。
そこには、後にいろんなグループで活躍するメンバーもいたと思います。ローラースケートでリンクを滑るうちに徐々に人数が絞られ、最後に残ったのが僕でした。そしたら社長にとある4人組のグループがあって、そこの1人のメンバーの振り付けを覚えるように言われました。するとその翌週くらいからメンバーの代わりに僕が入ることになり、もうひとり、赤坂晃くんも入って「GENJI」というグループ名になりました。僕は後から入ったメンバーだったので緊張していましたが、ここでも先にグループにいたヒロくんがメンバーと僕をつないでくれて、すぐになじむことができました。そして2人組の先輩グループ「光」と「GENJI」が合体して7人組の「光GENJI」が誕生し、高校1年だった1987年にデビューしました。
そこからは、多忙な毎日が始まりました。賞レースでは僕たちだけ新人賞の枠から外され、その代わり『レコード大賞』を始め、各音楽賞を総なめにしました。昼間は八王子から江東区の工業高校に片道2時間かけて通い、夜は光GENJIで睡眠時間は平均2時間。ローラースケートはリハーサル中に練習して、新曲は2~3時間くらいで歌詞と振り付けを覚えて、その日の夜の生放送で披露していました。合宿所には入らず、自宅から毎日電車で通っていたので、大勢のファンが僕の移動についてきて、僕の乗る電車の車両がファンで埋め尽くされてしまうこともよくありました。地元の交番のお巡りさんには「ファンの子が山本くんのお家を探していたから教えてあげたよ」って(笑)。実家は高尾方面なので、冬はうちの車の下に潜り込んで寒さをしのいでいたファンもいましたね。
人気絶頂時にはうそのような本当の話「駅員さんから『これからは新宿駅で下りないで』」
ある時、新宿駅西口の改札を抜けようとしたところ、駅員さんに呼び止められました。駅がパニックになってしまったそうで、「山本さん、これからは新宿駅で下りないでください」と言われました。飛行機や新幹線の移動は必ず専用口を使い、大みそかは、道路がパニックにならないように、『レコード大賞』の会場だった日本武道館から、『紅白歌合戦』のNHKホールまで警察の方が信号を青に変えて車で移動していました。歌番組では、カメラが回っている間は女性歌手やアイドルの方と絶対に目を合わせないようにするなど、とにかく常に気を張ってやっていましたね。今では電車に乗っても誰にも気付かれなくなりましたけど(笑)。
そんな張り詰めた24時間でしたが、唯一、素の自分でいられる場所は自宅と高校でした。クラスメイトは急に有名になってしまった僕のことを心配してくれて、それまでと変わらない一人の生徒として接してくれました。授業中は居眠りしてばかりでしたけど、本当に楽しかったです。先生も仲間もみんなで僕を助けてくれたんですが、光GENJIの活動があまりにも忙しすぎて、1年生の時に出席日数が3日足らず、1年生を2回やりました。同級生と一緒に卒業できなくて悔しかったですし、4年間学校に通うのは、めちゃくちゃ大変でした。でも、ひとつ下の仲間をはじめ、みんなに支えてもらって楽しくて、思い出深い学生時代でした。振り返るとあの時、忙しさから逃げないでちゃんとやってこれたという経験が、その後の自分の人生に大きな影響を与えてくれたんだと思っています。
1995年に光GENJIは解散しました。あの頃ってまだ「アイドルは20歳まで」という昔からのイメージが残っていた時代で、それぞれ次の進路を選択する時期だったと思います。1987年にデビューした頃は、周りはソロアイドルばかりでした。あの時代だから、光GENJIは存在できたグループだったのかもしれません。そう考えると、今度は僕たちの後に続く後輩グループが、バラエティータレントや俳優としても活躍して、何歳になってもグループを続けていけるという前例を作りました。だから時代背景によってその時のグループの役割とか存在というものが違っていたのかもしれないですね。
光GENJIとしての8年間は、まさに僕の青春時代でした。最初は部活動みたいに楽しんでいましたけど、だんだんと社会人としての責任を求められ、ファンのありがたみにもたくさん触れて、大人として成長させていただいた8年間だったと思います。
次回は光GENJI解散後の僕の活動を紹介したいと思います。
□山本淳一(やまもと・じゅんいち)1972年2月28日、東京都八王子市出身。87年8月19日、7人組男性アイドルグルー・光GENJIのメンバーとして『STAR LIGHT』でデビュー。ローラースケートのパフォーマンスなどで爆発的な人気を博し、88年『パラダイス銀河』で第30回日本レコード大賞受賞を始め、各賞レースを総なめにし、社会現象とまで呼ばれた。95年、光GENJIが解散。ソロ活動や一般企業の営業職、飲食店の接客業、プロレスラーなど多様な経験を経て、デビュー35周年となる2022年に歌手として再出発。現在は光GENJIのメンバーだった佐藤寛之とユニット・ふたつの風としても活動する。
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