コンプラ違反から1年2か月 生島ヒロシ復帰、4月から文化放送でパーソナリティー「本当にうれしかった」

フリーアナウンサーの生島ヒロシ(75)が、4月上旬から文化放送の番組でパーソナリティーを務めることが関係者への取材で16日、分かった。生島自身も「まだ詳細は明かせない」としているが、17日中に同局が番組名と放送日時を発表するとみられる。生島は昨年1月17日、1998年からMCを担当していたTBSラジオ『生島ヒロシのおはよう定食/一直線』をコンプライアンス違反で電撃降板。以降、活動を休止してきたが、約1年2か月を経ての復帰になる。

3月11日故郷・気仙沼で手を合わせる生島ヒロシ
3月11日故郷・気仙沼で手を合わせる生島ヒロシ

謹慎生活中は「眠れない夜も」

 フリーアナウンサーの生島ヒロシ(75)が、4月上旬から文化放送の番組でパーソナリティーを務めることが関係者への取材で16日、分かった。生島自身も「まだ詳細は明かせない」としているが、17日中に同局が番組名と放送日時を発表するとみられる。生島は昨年1月17日、1998年からMCを担当していたTBSラジオ『生島ヒロシのおはよう定食/一直線』をコンプライアンス違反で電撃降板。以降、活動を休止してきたが、約1年2か月を経ての復帰になる。

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『生島ヒロシのおはよう定食/一直線』は早朝の帯番組。あと5回で、放送7000回の節目を迎える直前のことだった。生島は当時を振り返って言った。

「今まで経験したことのないショックでした。呼吸も乱れるような感覚もありました。自分の中で、何かが一気に崩れ落ちたんです」

 当日の夜、NHKのニュースで自分の顔が映し出された。何気なくテレビを見ていたところに突然飛び込んできた自分の姿。起こしてしまった大きさ、重さを社会の現実として突きつけられた気がしたという。

「自分の人生でやってきたことが、全部否定されたような気持ちになりました。『ああ、もうダメだ』と。本当に思いました」

 眠れない夜が続き、外に出るのも嫌だった。誰かとすれ違うだけで、自分のことをうわさしているように感じた。世間の全て、自分を責めているように思えたという。

 夜道を歩いた時、妻からふと漏れた言葉「まるで犯罪者みたいだね」は、今も胸に深く残っているという。

「存在価値がゼロになったような気がしたんです。周りの人、みんなが自分を悪く思っているんじゃないか。そういう気持ちから抜け出せなかったんです」

 長年、自分のライフワークとして大切にしてきたラジオの仕事も失った。どう立ち直ればいいのか、見当もつかなかったという。

 そんな生島を支えたのは、家族やただ黙って手を差し伸べてくれる人たちの存在だった。特に大きかったのが、生島の番組で長い付き合いのあった元順天堂医院・天野篤院長だった。多くの人が「何があったのか」と事情を聞きたがる中で、天野氏は一切それを聞かなかった。ただ食事に誘い、「ゴルフに行きましょう」と声をかけた。最初は、その気力すらなかった。だが、天野氏はこう言ったという。

「生島さんは宮城の星、東北の星なんだから。もう74歳でしょう。いつ死んでもおかしくない年齢なんですよ。だったら、ここで終わってどうするんですか。命があるんだから、もう1度立ち上がらないと」

 振り返ると、生島は東日本大震災で家族を亡くすなど、幾多の困難を経験してきた。だからこそ、「せっかく命があるのだから、このまま沈んでいるだけじゃいけない」という思いが、少しずつ心の中に戻ってきたという。

 ようやく外に出て食事をする気持ちになれた。人から声をかけられ、励まされ、多くの本を読んだ。多くの人に失敗があり、挫折があり、どう立ち直っていったのか、自分は何が悪かったのかを見つめ直す時間となった。

 半年ほど過ぎた頃、「自分でも何かできないか」とボランティア活動に参加するようになった。能登半島では、炊き出しの現場に入った。テントを張り、鍋釜を用意し、設営から携わった。本当の意味での支援の現場に立ったことで、見えてくるものがあった。

 特別養護老人ホームでは高齢者と向き合い、障害のある人たちが働く現場も訪れた。親亡きあとを見据え、懸命に居場所をつくろうとする家族や経営者の姿にも触れた。地元の宮城・気仙沼市では、震災後も子どもたちの活動を支え続けてきた。

「自分が励ますつもりで行ったのに、逆に自分の方が生きる力をもらったんです」

「社会に迷惑をかけた」との思いがある一方で、もっと厳しい状況の中でも懸命に生きる人たちがいる。そのことを目の当たりにし、「自分も頑張れる」「終わってはいけない」という気持ちが湧いてきた。

 反省の日々の中で、生島はコンプライアンスも一から学び直した。関連書籍を読み、専門家にも会い、資格試験にも取り組んだ。中でも痛感したのは、「自分では意識していたつもり」と「相手がどう受け止めたか」は、違うということだった。

「周波数が合う人とはうまくいく。でも、合わない人とどう向き合うか。それをきちんと学ばなければいけなかったんだと思います」

 腹を立てても得することはない。人にもっと丁寧に接しなければいけない。ちょっとした摩擦が、大きな損失や傷につながることもある。今回の経験は、そのことを身をもって教えてくれた。

妹夫婦を含む犠牲者の方々に手を合わせる生島ヒロシ
妹夫婦を含む犠牲者の方々に手を合わせる生島ヒロシ

届いたセカンドチャンス「勇気に報いたい」

 そんな折、「文化放送で番組が持てるかもしれない」という知らせが入った。その知らせは、生島にとっては暗闇に差し込んだ一筋の光だった。

「本当にうれしかった。人間って、希望があると生きる力が出るんです」

 実現は簡単ではない。スポンサー、放送枠、世間の目。何より、1度つまずいた自分を起用すること自体が、周囲にとって勇気のいる決断だったはずだ。それでも手を差し伸べてくれた人たちがいた。

「セカンドチャンスをくれた。その勇気に報いないといけないと思いました」

 ゼロからではなく、マイナスからのスタートかもしれない。だが、それでも前に進みたいという気持ちはハッキリした。

 この1年あまり、生島は仕事から遠ざかり、世間との接触も減った。だから、以前と同じようにパフォーマンスが発揮できるかは、自分でも分からないという。長く話せば喉に負担もかかる。ボイストレーニングも、もう1度やり直すつもりだ。

 それでも、この期間に味わった後悔、悔しさ、人の温かさ、感謝。それら全てが、これからの自分を作る糧になると信じている。そして長年自分を支えてくれたリスナーに謝罪と感謝を伝えたかった。

 今月11日には「気仙沼市東日本大震災追悼式」に出席し、仕事復帰を前に妹夫婦を含む犠牲者の方々に手を合わせてきた。妹夫婦には復帰を伝え、見守ってくれることを願ったという。

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