統合失調症の姉を南京錠で“監禁” 「父はお茶にスポイトで…」弟が目撃した衝撃の実態

映画監督の藤野知明さんが統合失調症を患った8歳上の姉と家族の関係を約30年にわたり記録したドキュメンタリー映画『どうすればよかったか?』は、両親によって玄関に南京錠をかけられるという事実を公にし、大きな衝撃を与えた。1月29日に発売された著書『どうすればよかったか?』(文藝春秋)では、映画では描かれなかったあるエピソードが明かされている。

子どもの頃、きょうだい仲はよかった【写真:(C)2024動画工房ぞうしま】
子どもの頃、きょうだい仲はよかった【写真:(C)2024動画工房ぞうしま】

医学部に通っていた姉が突然、叫び出した

 映画監督の藤野知明さんが統合失調症を患った8歳上の姉と家族の関係を約30年にわたり記録したドキュメンタリー映画『どうすればよかったか?』は、両親によって玄関に南京錠をかけられるという事実を公にし、大きな衝撃を与えた。1月29日に発売された著書『どうすればよかったか?』(文藝春秋)では、映画では描かれなかったあるエピソードが明かされている。

 姉の状態に変化が起きたのは藤野さんが高校2年生の時だった。

「要するに、言葉が通じないような状況だったんですよね。もうドアを開けて入っていこうとしたら、さらに声が大きくなっちゃって。僕も母も近づけないんですよ。姉の部屋に入ろうとしても、さらに大きな声でしゃべり出すというか、叫び始めるんで。で、それがうなされるようにずっと続いているんですよね」

 当時、姉は医学部に通う学生だった。両親は医者で研究者という家庭に生まれた。きょうだい仲はよく、面倒見のいい姉だった。それが別人のような変調をきたした。

 高校生の藤野さんから見ても心配するほどの状態だったが、救急搬送された姉は父に付き添われて帰宅。そして、父は「姉は病気ではない」と、藤野さんに言った。

 それから姉が「統合失調症」と診断されるまで、まさか25年の時が流れようとは。両親は姉を通院させず、姉自身も望まなかった。しかし、その後も気になる症状は続いた。

 藤野さんは、1992年から姉の音声を録音し、やがて映像にも記録するようになった。姉は2021年に他界。その後、藤野さんは撮り溜めてきた素材を編集して映画『どうすればよかったか?』で公開した。

 わずか4館の上映から始まった映画は、昨年末時点で観客動員16万人を超える“想定外”のヒットに。姉の病気を認めず玄関に南京錠をかけてまで外に出さなかった両親、エスカレートしていく姉の言動、間に挟まれた藤野さんの葛藤、カメラを向けて映像に残したことへの是非などを含め、大きな議論を呼んだ。

 藤野さんは映画で主に2つのポイントに焦点を当てていた。なぜ両親は25年間、姉の精神科の受診を拒み続けたのか。そして、なぜ玄関に南京錠をかけたのかだ。だが、実は最初から入れようと考えていた「3つ目のポイント」があった。それが、著書で明かしている“薬物投与問題”だ。

「父がですね、どうやら向精神薬を姉に承諾を得ずに与えていたのではないかと見える場面を僕は何度も目撃していて」。それは、にわかに信じられない行為だった。父はポケットからスポイトのようなものに入れた液体を出すと、台所で姉に出すお茶にだけ入れていた。

 投薬は少なくとも10年に及び、藤野さんが就職のため家を出た後も続いていたと見ている。父に説明を求めても回答はなかった。藤野さんは2001年から撮影を始めたが、最初はこの動作を記録するためだったという。

 しかし、息子がカメラを向けていると、父はその行為をやめた。“決定的瞬間”をカメラに収めることはできなかった。

「多分、僕が撮影してるのに気づいて、こっから先はやっちゃいけないというふうに父は思ったからやめたんじゃないかと」と受け止めている。

 撮影を開始して数年後、父はとある向精神薬の名前を口にした。「ただ、もう使ってない」「だからうちにはない」と説明した。

 映画の中では取り上げなかった。

「映像の作品で(証拠となる)映像がないのに、これを事実ですって文字だけで出すっていうのも無理があるだろうなと思ったんで、結局やめちゃったんですよね」

 だが今回、書籍化にあたって、藤野さんはこの事実を記すことを決めた。映画制作時には父は健在だったが、本を書く前に亡くなっていたことも、書きやすくなった理由の一つだという。

藤野知明さん【写真:ENCOUNT編集部】
藤野知明さん【写真:ENCOUNT編集部】

「人間を人間として見てない」事実に衝撃

 この問題の深刻さについて、藤野さんはこう語る。

「もう人間を人間として見てないような、ちょっとこう、すごく冷たいものを感じますよね。医師って、時々、人間を人間として見てなくて、何か物のように扱っているのをたまに感じるんですけど、そういう冷たいものを感じました」

 両親は医師ということもあり、家の中には複数の化学薬品や薬物があった。しかし、正式な診断もなく、まして本人の知らないところで薬を投与することはあってはならないことだ。

 本人が少し良くなったと感じても、それは薬のせいだった可能性もある。藤野さんも姉の状態を撮影しながら、これが統合失調症の症状なのか、向精神薬を与えられたことによる副作用なのか、判別がつかなかった。

「僕が何を聞いても反応が返ってこないっていうのは、統合失調症の症状なのか、それとも薬の副作用でこうなっているのか、もう分からないんですよね」。両親のコントロール下にあった姉の、あまりに残酷な実態が浮かび上がった。

“謎の薬”が向けられたのは、姉だけではなかった。両親による薬の投与は、藤野さん自身に対してもあった。大学生の頃、母から頭痛薬として渡された薬を飲んだところ、意識がもうろうとするような、他の薬とは全く違う反応があったという。

「根拠はないんですけど、もしかして姉に使ってた向精神薬を僕にも使ったんじゃないかなって思いました」。それ以来、親からはどんな薬も受け取らないと決めた。

 映画を見た人からは「なんで病院に連れてかなかったんだ」「ビデオ回してる暇があったら、病院に連れてったほうがよかったんじゃないか」という反応があった。だが、「統合失調症」と診断がついたのは、25年後のこと。それまで、藤野さん自身も、「そうかもしれない」と確信は持てずに接していた。

 それでも自ら動き、姉を通院させようと試みたこともある。インターネットで調べ、電話相談も利用したが、「うちにすぐ連れてきてください」と言ってくるところは一つもなかった。姉は成人していたため両親は保護者ではないが、本人に入院する意思がない場合、家族の代諾が必要だ。その優先順位はきょうだいよりも両親が上になる。「両親が反対しているものを、きょうだいが違う考え方で入院させるということはできない」。著書では、両親に対して納得がいかず、“殺してしまおう”とまで思い詰めたこともあったと明かしている。

 自傷他害の可能性があれば警察の介入で入院できたが、姉の場合それもなかった。「だから、僕としてはもう両親を説得して入院するっていう手順しかありませんでした」。藤野さんは、無断の投薬について、おそらく両親は精神科を受診すると姉の医師や研究者としてのキャリアが終わるのではないかと心配し、「こっそり自分たちで治すことに賭けたんじゃないか」と推測する。

 効果が出なかったのに、なぜ軌道修正ができなかったのか。

「すごく客観的に見て、父も母も優秀なわけですよ。僕よりもはるかに優秀なんですけど、子どもに対しては、その他の人に対するのとはちょっと違う基準になっちゃっていたんですよね」

 4年の浪人を経て、医学部に合格した姉。その道のりには、常に親の期待が影を落としていた。

両親は医師だった【写真:(C)2024動画工房ぞうしま】
両親は医師だった【写真:(C)2024動画工房ぞうしま】

「両親の判断は正しかった」と指摘する医師も

 2008年、母の認知症が進み、父一人では姉の面倒を見られなくなったタイミングで、ついに姉は精神科に入院した。25年間、統合失調症かどうかも分からない状態が続いていたが、すぐに診断が出た。「診断が出たことが一番うれしかった」と藤野さんは振り返る。

 3か月の入院で、姉は目に見えて改善した。「きょうだいらしい会話が少しはできるようになったらいいかな」という願いは、あっさりとかなった。

「こんなに変わるもんなのかっていうのは、正直驚きましたよね」。だからこそ、もう少し早く通院していれば……との気持ちもよぎった。

 映画の劇場公開は当初、赤字にならないことが目標だった。配給会社からは2万人の動員が必要と言われ、「相当難しい数字」だったが、結果的に1年以上の上映が続き、ハードルをクリアした。サイン会や講演会では、精神疾患の身内を抱える家族から「よくこれをオープン公開してくれた」という声が多く寄せられた。

 一方で、ある精神科医からは「両親の判断は正しかった」という連絡もあった。1980年代の精神科病院の状況を知る医師で、当時の病院に入院させなかったことは間違ってはいなかったという趣旨だった。入院が症状の改善につながる確証はなく、また、安心して預けられる環境にはなかったとの主張だった。

 藤野さんは、姉の人生が幸せだったかという問いに対し、明確な答えを出さない。「幸せかどうかはね、やっぱり最終的には本人が判断するしかない」としながらも、「もっといろいろできることはあったんじゃないかなとは思いますね」と語った。

 25歳頃、藤野さんは将来が見えてしまったという。両親が亡くなった後、姉は一人で生活できないだろう。「だから両親に早く持ってる情報を渡してくださいって話をしてたんですけどね。なかなか難しかったですね」。

 久しぶりに帰省した時、玄関に南京錠がかけられていた光景は今でも忘れられない。

「いや、大変なことになってると思いましたね。薬も大問題でしたけど、これもいくつか法律破ってるなと思って、早くなんとかしなきゃいけないって思いました。僕が鍵を外したら母かな、またつけ始めて。チェーンにさらに鎖を巻いてたんで、チェーンを外してしまえばできないかなと思って、チェーンごと外したら、今度は取っ手のところにひもをつけて、また母なりにいろいろ工夫してやってましたけどもせめぎ合ってましたよね。姉が入院できた後は、もう母もしなくなりましたけどね」

 姉は外に出られないようになってから意思の疎通が悪くなった。深夜に冷蔵庫の中からシチューのルーを取り出し、手づかみで食べていた。風呂にも入らなくなった。

 30年の記録が問うのは、非情な現実だ。家族とは何かを突きつけられ、優秀さと客観性の狭間で揺れる人間のあやうさを浮き彫りにした。

次のページへ (2/2) 【写真】父の還暦祝いに食卓を囲む藤野さんの家族写真
1 2
あなたの“気になる”を教えてください