「早く出せ!」叫んだ友人 19歳で交通事故、動かない体…絶望の果てに見つけた“生きる意味”
「早く出せ!」。深夜の道路上、事故の衝撃で目を覚ました19歳の梅宮俊明さんは、車内に閉じ込められたまま、周囲の叫び声を聞いていた。引っ張り出された時、気づいた。首から下の感覚が、まったくない。そのまま意識を失い、次に目を開けた時には病院のベッドの上だった。1週間が経過していた。口で筆を取る画家が、59歳になった今、語る半生とは――。

「自分の手足が動かない」 閉じ込められた車内で訴え
「早く出せ!」。深夜の道路上、事故の衝撃で目を覚ました19歳の梅宮俊明さんは、車内に閉じ込められたまま、周囲の叫び声を聞いていた。引っ張り出された時、気づいた。首から下の感覚が、まったくない。そのまま意識を失い、次に目を開けた時には病院のベッドの上だった。1週間が経過していた。口で筆を取る画家が、59歳になった今、語る半生とは――。(取材・文=水沼一夫)
仲間たちと夜遅くまでドライブを楽しんでいた。疲れきった梅宮さんは後部座席で眠りに落ちていた。事故の瞬間は覚えていない。愛車のセリカ・ダブルエックスのハンドルは友人に任せていた。突然ガードレールか何かに激突し、ローンを組んだばかりのガンメタリックのボディーはぐちゃぐちゃになった。
「乗っていたのは全部で4人。私は後ろの席で寝ていたんです。事故起こした直後、車の中に閉じ込められていて、周りから『早く出せ!』という声が聞こえました。それで引っ張り出されて、その時に首から下はまったく感覚がない状態。友人に、『自分の手足が動かない』と言って意識をなくして、気がついたら病院にいました」
他の同乗者は骨折程度で済んだ。しかし梅宮さんだけは違った。埼玉・東松山市の埼玉成恵会病院のICU(集中治療室)で1週間ぶりに目覚めた時、天井が見えた。病院には母、父、友人たちが集まっていた。みんな喜んでいた。ほっとした。だが同時に、「頭が真っ白になった」。首から下に、何の感覚もなかったからだ。
頸椎損傷による四肢まひ。主治医からの診断は、19歳の青年にとってあまりにも過酷だった。
「首から下が完全にまひしているから、感覚的なものは今後無理です。神経がくっつくことはない」
首にはコルセットのような器具。頭に鉄球のような重りをつけられ、首の骨を引っ張り上げるような治療が続いた。それが何よりもつらかった。
両親が医師から告げられた言葉は、さらに衝撃的だった。
「障がいが残ったから今後、長生きはできない」
命を長らえても40歳までが限界だと言われた。梅宮さん本人がこのことを知ったのは後になってからだったが、当時の医療水準では、それが現実だった。
東京・荒川区で生まれ、小学2年生で越谷市に引っ越した梅宮さんは、毎日外で遊び回るやんちゃな少年だった。少年野球、テニス部、バレーボール部と、体を動かすことが好きだった。高校卒業後は、父が営んでいた既製服の仕上げを手伝い、トラックで配達する日々。バブル期で仕事は忙しく、跡継ぎとして働き始めたばかりだった。
その人生が、一夜にして崩れ去った。
ICUでの生活は7か月に及んだ。母と叔母が交互に付き添い続けた。
入院1か月後に首の手術を受けたが、その後に床ずれができた。当時は寝たきりになると床ずれができやすく、感染によって毎日のように熱が出た。治療の繰り返しだった。
リハビリ病院への転院は順番待ちもあり、ICUでの長期滞在となった。退院後、上尾の病院に3か月入院し、その後5年間、週1回のペースで通院した。車いすで生活をするための訓練だった。
自宅にはスロープを設置し、風呂場も大掛かりな改築を行った。食事、排便、排尿。すべてが自力ではできない。父と母は仕事を続けながら、梅宮さんの介護を続けた。

希望を失った毎日 「天罰じゃないけど、報いが来たのかな」
通院していない6日間は、家でただテレビを見て過ごすだけの日々。
「天罰じゃないけど、報いが来たのかな」
やんちゃで悪さばかりしていた自分への罰だと思った。絶望的な状況に、若干の諦めの気持ちもあった。将来を考えれば考えるほど、不安が強くなった。
どうやって生活していくのか。いずれは施設に入るしかないのか。
友人を避けた時期もあった。最初は会うのもつらくて、食事に誘われても断っていた。
それでも友人たちは来てくれた。父親が福祉車両を用意してくれ、友人が運転して徐々に外出するようになった。意外と普通に遊べることが分かった。
一時期は、都内まで車いすバスケットに通ったこともあった。しかし、同じ頸椎損傷でも損傷レベルの低い、手が使える人たちと一緒にプレーするのは大変だった。
「現実を見ちゃうと、結構挫折でした」
それでも外出できたこと、様々な障がいを持つ人に会えたことは救いだった。リフレッシュにもなった。
ベッドの上で一人になると、どうしても考えてしまう。動いている人を見てうらましく思った。そんな日々が続いた。

人生を変えた油絵との出会い 「何度でもやり直せる」
転機は30代前半で訪れた。父が亡くなったのだ。
それまで母と叔母が2人で介護を続けていたが、ちょうどその時期に介護保険制度が始まった。ヘルパーを入れなければならない。徐々に動き出した。
パソコンを始めたことも大きかった。越谷市の社会福祉協議会に相談した際、取材を受け、広報誌にメールアドレスが掲載された。すると、一通のメールが届いた。
「絵画教室に入っているから、一度遊びにおいで」
初めて、油絵の教室があることを知った。そこで出会った絵画教室の先生が「口でも描けるよ」と言ってくれた。その言葉がなければ、絵を描き始めることはなかった。
群馬県にある星野富弘さんの美術館を訪れた。星野さんも口で絵を描く画家だった。作品を見て思った。
「もしかしたら自分でも描けるかな」
最初は筆をくわえることすら難しかった。それでも1年も続けると、くわえることに慣れてきた。自分の作品が残る。それが何よりもうれしかった。母は誰よりも喜んでくれた。亡くなった祖母も同じだった。
絵画教室を紹介してくれた人が個展を開いていた。それを見て、目標ができた。いつか自分も個展を開きたい。
10枚、20枚、30枚……。メキメキと腕を上げた。展覧会で特賞を受賞した。それをきっかけに「口と足で描く芸術家協会」に入会した。これまでに100作品以上を制作してきた。
油絵は色を重ねていく。間違えても何度でもやり直せる。いろんな色を混ぜ合わせて、どんどん変化していく。それが自分に合っていると感じた。

東京五輪のイメージ映像に登場 絵は「生きている証」
1月16日から18日まで渋谷キャストで開催される絵画展『口と足で表現する世界の芸術家たち』に、梅宮さんの作品「Victory」が展示される。
2020年の東京五輪・パラリンピック開催が決まった時、躍動感を出したいと思った。半年かけて完成させた作品は、平泳ぎの北島康介さんをイメージしている。
「自分が生きてる間には東京でオリンピックがないと思うので、何か残せたらなと思って」。梅宮さんは、東京五輪のイメージ映像にも登場を果たした。
梅宮さんが描く絵は、発色の良い明るい色を多く使うのが特徴だ。
「見てくれた人が楽しくなったり、感動してもらえたらなと思って。明るい気持ちになれるような絵を描きたい」
画家になる前は漠然と生きていた。希望というより、不安しかなかった。
しかし絵を描くことで、それは変わった。
「絵は描いて残せていくものなので、本当に生きてる意味というか、生きている証みたいな感じです」
当面の目標は、仲間とグループ展を開くことだ。同じ画家たちで「5人展」というグループ展をやっていたが、全員で会うのは難しくなった。それでも、また近いうちに同じ仲間とグループ展を開きたいと考えている。
19歳で閉ざされた未来。40歳までと宣告された命。しかし梅宮さんは今、筆をくわえて“生きる意味”を描き続けている。絶望の中から見つけた光は、色鮮やかなキャンバスの上で輝いている。
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