映画『五十年目の俺たちの旅』、コンプラ時代に示した熱量と「老い」への希望…70代でも青春の真っ只中【映画評】

「青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ」。米国の詩人、サミュエル・ウルマンの詩『青春(Youth)』の一節は、あまりに有名だ。優れた創造力、たくましき意志、炎(ほむ)ゆる情熱。年を重ねても、それらを持ち続ける限り、人は老いることはない――。そんな言葉を地で行くような映画が、9日に公開された『五十年目の俺たちの旅』だ。

映画『五十年目の俺たちの旅』のメインキャスト。左から秋野太作、中村雅俊、田中健【写真:(C)「五十年目の俺たちの旅」製作委員会】
映画『五十年目の俺たちの旅』のメインキャスト。左から秋野太作、中村雅俊、田中健【写真:(C)「五十年目の俺たちの旅」製作委員会】

中村雅俊の初監督、伝説ドラマの初映画化

「青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ」。米国の詩人、サミュエル・ウルマンの詩『青春(Youth)』の一節は、あまりに有名だ。優れた創造力、たくましき意志、炎(ほむ)ゆる情熱。年を重ねても、それらを持ち続ける限り、人は老いることはない――。そんな言葉を地で行くような映画が、9日に公開された『五十年目の俺たちの旅』だ。(文=映画ライター・平辻哲也)

 本作は、1975年から日本テレビ系列で放送された伝説の青春ドラマ『俺たちの旅』の50周年を記念した初の映画化。カースケ(中村雅俊)、グズ六(秋野太作)、オメダ(田中健)の3人が織りなす青春群像劇は当時の若者を熱狂させたと聞く。

「聞く」と書いたのは、1968年生まれの筆者は当時まだ7歳。リアルタイムで彼らの熱狂に浸った世代ではないからだ。いわば「後追い」の視点である。しかし、これまで『十年目の再会』『二十年目の選択』『三十年目の運命』と、彼らの人生の節目ごとに作られてきたスペシャルドラマの歴史を知れば、このシリーズがいかにファンと共に人生を歩んできたかが分かる。

 そして、50年目。今回はシリーズの顔である中村自身が初めてメガホンを取り、脚本はシリーズ生みの親である鎌田敏夫氏が書き下ろした。まさに正真正銘の「完結編」とも呼べる布陣だ。

 映画の舞台は、前作『三十年目の運命』(2003年)からさらに20年が過ぎた現代。かつて井の頭公園をかっ歩していた3人も、今や70代の老境に差し掛かっている。

 カースケは東京で小さな町工場を経営し、オメダは鳥取県米子市の市長を務め、グズ六は妻・紀子の手腕もあり、介護施設の理事長に収まっていた。それぞれが社会的な立場を持ち、平穏な日々を過ごしているように見える。

 しかし、物語はオメダがカースケの工場を訪ねてきたことから動き出す。市長として成功しているはずのオメダだが、様子がおかしい。そんな中、カースケの工場で思い出の品である「砂時計」が見つかり、20年前に亡くなったはずのカースケの元恋人・洋子(金沢碧)が「生きている」という衝撃の情報が飛び込んでくる。洋子の幻影、オメダの抱える苦悩、そして彼らを見守り続けてきたオメダの妹・真弓(岡田奈々)の思い。50年という歳月が積み重ねた物語が、ミステリータッチでひもとかれていく……。

 シリーズ未見の筆者が本作を見て、まず強烈に印象に残ったのは、その「昭和的」な人間関係の濃さだ。映画には、シリーズ過去作の映像がふんだんに挿入される。令和の価値観で見れば、ギョッとするシーンもある。カースケとオメダが取っ組み合いのけんかを始めたり、カースケが洋子に平手打ちを食らわせたりする。「男っていうのは……」といった、ジェンダー論の観点からは危ういセリフも飛び出す。

 コンプライアンスが重視され、ハラスメントに敏感になった現代社会において、これらは「不適切」な描写として断罪される対象かもしれない。しかし、スクリーンの中のカースケたちを見ていると、不思議と不快感は湧いてこない。むしろ、うらやましさすら感じるのだ。

 それは、そこにあるのが「衝突のための衝突」ではなく、不器用なまでに真剣に相手と向き合おうとする「熱量」の発露だからではないか。言葉で論理的に説明して距離を保つスマートな現代人に対し、昭和を生きた彼らは全身でぶつかり合うことでしか、愛や友情を確認できなかったのだ。「愛ある衝突」と言ってしまえば美化しすぎだろうか。だが、その痛みこそが、彼らの絆の証しだったことは間違いない。

 劇中には、3人の関係を「いつまでお友達ごっこをしているつもりですか」と冷ややかに非難されるシーンがある。これは、効率や成果を求める現代社会から、彼らへの突きつけられた刃のようにも響く。しかし、映画はその「ごっこ」の中にこそ、人間が生きていく上で本当に必要な体温があることを静かに訴えかけてくる。

 もう一つ、本作が提示する興味深いテーマは、「悩みは年齢では解決しない」という事実だ。一般的にシニア映画といえば、「定年後の第二の人生を謳歌(おうか)する」あるいは「終活に向けて整理をつける」といったどこか枯れた、あるいは悟りを開いた物語が多い。

 だが、カースケたちは違う。70代になっても、彼らの中身は驚くほど若いころと変わっていない。オメダは問いかける。「カースケ、人生の最後になって本当にやりたいことって何か、考えたことがあるか」。地位も名誉もある70代の男が、まるで就職活動中の学生のように、自分の生きる意味を問い直しているのだ。過去の恋愛を引きずり、家族との関係に悩み、進むべき道に迷う。

岡田奈々(左)はオメダの妹・真弓役で出演【写真:(C)「五十年目の俺たちの旅」製作委員会】
岡田奈々(左)はオメダの妹・真弓役で出演【写真:(C)「五十年目の俺たちの旅」製作委員会】

懐古趣味ではなく、現在進行形の人間ドラマ

 その姿は、ある意味で残酷だ。年をとれば自然と立派な大人になれるわけではないし、悩みから解放されるわけでもない。しかし、だからこそ、観客は彼らに共感するのではないだろうか。変わっていく時代、変わっていく肉体。その中で、変わらない迷いを抱えながら、それでも「お前には分からん」と意地を張り、泥臭く生きようとする姿。

 これは、単なる懐古趣味の同窓会映画ではない。人生という旅は、死ぬその瞬間まで「答え合わせ」の途中なのだと教えてくれる、現在進行形の人間ドラマだ。

 昨今、高齢化社会に伴いシニア向けの映画は増えているが、『五十年目の俺たちの旅』は、そのどれとも違う手触りを残す。かつてウルマンが謳(うた)ったように、青春が心の様相であるならば、70代の彼らは今なお青春の真っ只中にいる。

 昭和の熱さを内包したまま、令和の時代に迷い、もがく70代。その姿に、かつてのファンは自らの歩んできた50年を重ね、初めて見る世代は「老いること」への新たな希望を見出すかもしれない。不器用で、どうしようもないけれど、愛すべき男たち。“彼らの旅”はまだ終わらない。

□平辻哲也(ひらつじ・てつや)1992年、新聞社に入社。30年以上、映画分野に関わり、カンヌ、ベネチア、ベルリンの世界三大映画祭も取材。ENCOUNTアドバイザー、サンデー毎日「Weekly Cinema」、ぴあ「水先案内」では映画評を担当。SKIPシティDシネマ映画祭(7月13~21日)の1次審査員も務めている。

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