手のひらサイズの未熟児から170cmのレスラーへ 歌いながら戦う越野SYOKO.、弟子に金を持ち逃げされた壮絶過去

昨年10月、マリーゴールドの両国国技館大会でプロレスデビューを果たした越野SYOKO.。シンガー・ソングライターとして活動している越野は、デビュー戦では歌いながら(しかもとても上手)入場し、いきなり先輩から勝利を挙げた。そして今年1月3日の大田区大会では、ビクトリア弓月の持つUN選手権に挑戦し、大器の片鱗を見せつけた。その越野に、これまでの人生を振り返ってもらったのだが、前編はシンガー・ソングライターとしての越野SYOKO.のお話を。

マリーゴールドの新星・越野SYOKO.【写真:橋場了吾】
マリーゴールドの新星・越野SYOKO.【写真:橋場了吾】

ほぼ経験のないバレーボールで高校推薦合格、しかし…

 昨年10月、マリーゴールドの両国国技館大会でプロレスデビューを果たした越野SYOKO.。シンガー・ソングライターとして活動している越野は、デビュー戦では歌いながら(しかもとても上手)入場し、いきなり先輩から勝利を挙げた。そして今年1月3日の大田区大会では、ビクトリア弓月の持つUN選手権に挑戦し、大器の片鱗を見せつけた。その越野に、これまでの人生を振り返ってもらったのだが、前編はシンガー・ソングライターとしての越野SYOKO.のお話を。(取材・文=橋場了吾)

 越野SYOKO.は大阪市港区出身。現在は170cmの長身だが、小さい頃はそこまで高くなかったという。

「小学校6年生ぐらいには後ろの方でしたけど、そんなに大きくなかったと思います。実は、手のひらよりちょっと大きいくらいの未熟児として生まれたんです。でも、保育器に入ったらデカくなる説、ありません?(笑)でもその影響なのか、鼻炎はちょっと残っているんですよね」

 越野が生まれたのは大阪市港区。港区の公式ソング『きらめき港区ック♪』も歌っている。

「街の中に信号がひとつもないところで生まれ育ちました。いつかマリーゴールドのリングでも歌いたいですね。やっぱり、子どもたちにプロレスを見せたいんですよ。キッズダンスの子たちを集めて踊ってもらったら、試合を見て帰るじゃないですか。それをやりたいんですよね」

 越野は小さい頃はキックベースをよくやっていたという。その後、ハンドボールとバレーボールの選手になった。

「中学生時代は生徒会活動をしていて、だんだんハンドボール部の練習に行けなくなってレギュラーが無理だなとなったときに、バレーボール部の子が来て『最後の大会に出たいんだけど、人数が足りひん』と。ハンド部の先生にバレー部に移りたいといったら、したいんだったらそうすればいいということで。それでバレー部に入ったんですが、全然やっていないバレーで高校推薦に受かりました(笑)。

 でも細かいルールがあまりわかっていなくて、高校時代はきつく当たられましたね。でも、きつい球を追い続けていたら、どんどんうまくなっちゃって、先生も『越野を見習え!』とか言い始めて。そうなると、先輩たちからの当たりはさらにきつくなって……ある日、『知るかボケ!』スイッチが入って感情を爆発させてしまったんです。鉄の扉をバーン!と叩いたら、先生が全員出てくるくらいの大騒ぎになってしまい……『お前ら、一人ずつもの言わんのかい!』ってやってしまって。そのおかげか、その後は何もなくなりましたけど」

歌いながらの入場で沸かせる【写真:(C)マリーゴールド】
歌いながらの入場で沸かせる【写真:(C)マリーゴールド】

物心ついたときからの夢を必死に追いかけた結果が今の自分

 その後、越野は生きていく糧につながる軽音楽部に入ることになる。

「私は体育科の推薦だったので、元気な人が多くて。でも、軽音楽部はおとなしい人が多い印象で、周りからは『やめとき』みたいな感じだったんですけど、意外に陽キャラな人たちで。ちょうど今、同級生のバンドでベースが空いているからと譜面を渡されたんですけど、読めるわけがないじゃないですか(笑)。でも数日後に発表会をやるということで、知り合いの楽器ができる人にいっぱい電話して教えてもらって、2日で1曲覚えたんですよ。今まで弾いたことがなかったベースを、根性で覚えました。それで発表会で弾いたら、後輩がたくさん見に来て。超人気者やったんですよ、当時は(笑)」

 女子高で同性からモテる女子、越野の高校時代はまさにそんな感じだった。

「今も仲が良いので言っちゃいますけど、ボーカルがめっちゃ歌が下手でして……びっくりするくらい(笑)。それで自分で歌い始めたんです。練習をするというよりも、とにかく人前でいっぱい歌いました。ストリートでも、パーティーでも歌いました。芸能事務所のお偉いさんの前でも歌いましたね。なので、舞台根性はついたと思いますし、ダメ出しされて悔しい思いもしました。色々な場面でもまれて成長して経験値を得るという意味では、歌もプロレスも似ていると思いますね」

 越野は自分の“才能”よりも“思い”が勝っていたことを強調する。

「全然何の才能もなくて、夢を本気で追いかけていたんですよ。テレビの中の人になりたい、有名になりたいというのが物心ついたときからの夢だったんです。それを必死に追いかけた結果、今のシンガーソングライターとプロレスの両立につながったという感じですね」

 越野は歌の世界に入って、苦しい思いもしていた。

「歌で売れるというのは難しい世界なんです。私が弟子みたいに可愛がっていた女の子がいたんですけど、その子は施設育ちで親がいない子で。私より先に来て、後に帰る女の子で、ずっと来ていたんですよ。歌が好きというから教えてあげて、私のオープニングにも出てもらって。そうしたら病気になったと診断書を持ってきたんですよ。『これ、ヤバいな、嘘かな』と。前からその気があったので……募金活動をしたんですが、結果嘘で、お金を持って逃げちゃったんです。

 最終的には、通帳を作っていたので振込先がわかる人にはお金を返して。私が22歳くらいのときですかね、東京に行けるかもしれない一番いい時期に活動を自粛したんです。その後、東京に来て(当時の)事務所が経営しているレストランで働きながら音楽活動をしていたんですが、コロナ禍になって給料も全部打ち切られて……東京にいるのも経済的にきついなと思って、大阪に戻ったときに出会ったのがプロレスでした」

 不思議とプロレスとの縁はつながっていった。

「ドラゴン・ダイヤ選手(DRAGONGATE)の入場曲を、歌わせてもらえることになったんです。神戸ワールド記念ホールでも歌わせてもらったんですが、お客さんの熱量を見て、プロレスの会場で歌うのはたくさんの人に聴いてもらえますし、自分にとってセールスになるんじゃないかなと思ったんですよ(笑)。自分がたくさんの人に知られて有名になったら、自分がどこかに行くと喜んでくれるわけじゃないですか。すごい人が来てくれた!みたいな空気になるので、やっぱり『有名である』ことはマストなんやなと思いましたね」

(11日掲載の後編へ続く)

次のページへ (2/2) 【写真】プロレスラーになる前の越野SYOKO.のプライベートでの姿
1 2
あなたの“気になる”を教えてください