「当時の自分を殴りたい」 “一発屋芸人”のブレイクから20年…パッション屋良が吐露する後悔

白いポロシャツを着たマッチョ芸人、胸を強打しながら「んー!」と叫ぶ姿は強烈なインパクトを残し、お茶の間の注目をさらった。そんな栄光の日々から約20年。パッション屋良は現在、地元・沖縄を拠点にパーソナルトレーニングジム「Passion’s Fitness PPP」の経営やマネジメント会社「オフィスパッション」を構え、イベント司会や介護施設訪問など幅広く活動を続けている。ローカルタレントとして芸人活動も続けているが、過去のブレイク時期をどのように見ているのだろうか。当時よりも稼げているとは言い難い現状ながらも、「あの頃にはまったく戻りたくない」「当時の自分を殴りたい」と苦々しく振り返った。

沖縄・名護のパーソナルジム内でインタビューに応じたパッション屋良【写真:ENCOUNT編集部】
沖縄・名護のパーソナルジム内でインタビューに応じたパッション屋良【写真:ENCOUNT編集部】

どん底を見て実感した幸せのカタチ「家族と食べる半額ずしが1番おいしい」

 白いポロシャツを着たマッチョ芸人、胸を強打しながら「んー!」と叫ぶ姿は強烈なインパクトを残し、お茶の間の注目をさらった。そんな栄光の日々から約20年。パッション屋良は現在、地元・沖縄を拠点にパーソナルトレーニングジム「Passion’s Fitness PPP」の経営やマネジメント会社「オフィスパッション」を構え、イベント司会や介護施設訪問など幅広く活動を続けている。ローカルタレントとして芸人活動も続けているが、過去のブレイク時期をどのように見ているのだろうか。当時よりも稼げているとは言い難い現状ながらも、「あの頃にはまったく戻りたくない」「当時の自分を殴りたい」と苦々しく振り返った。(取材・文=中村彰洋)

 2004年に“パッション屋良”としてピン活動をスタートすると、たちまちブレイクを果たした。「んー!」の雄叫びは子どもたちもこぞってまねするほどだった。一時期は数百万円もの月収を手にするなど、まさに“売れっ子”の日々を送っていた。

 しかし、屋良は20年前を振り返り、「頑張っていたなと思う部分もありますが、あの時の自分がすごく嫌いです。戻りたいとは全く思わないですね」と表情を曇らす。

「やっぱり嫌な記憶ほど残るんですよね。今でも『なんであんな態度を取ってしまったんだ』と思っています。取材などで横柄な態度を取ってしまったり……。環境に満足しちゃっていたんでしょうね。何者でもなかった自分が、顔を覚えてもらって、道を歩けば指をさされて、スタッフからは『こちらにどうぞ』みたいな。そういうのを味わってしまって、少し天狗になっていた部分があったのかもしれません」

 テレビで当時のネタ映像などを目にし、「俺ってテレビに出てたんだな」という感情になることもある。だが、「パッション屋良ではなく、屋良朝苗という人間が大嫌いです。本当にぶん殴ってやりたい。説教してやりたいです」と後悔を口にする。

 ブレイク当時は、その現状に満足してしまっていた。その先に見据えた目標がなかったことも、人気が長続きしなかった理由だったのかもしれない。

「僕の中でこうなりたいというビジョンが全くなくて、とりあえずテレビに出て有名になりたいという思いだけでした。ちょっと嫌な言い方をすると、同級生や周囲から『屋良ちゃんすごいね』って言われることで、満足してしまっていたんです」

過去にはだまされて多額の借金を背負うも「今はだいぶ感度が高くなった」

 次第に仕事量は減少。新ネタを作ろうにも、当時の事務所スタッフとの意見が合わず、「別にいいわ」と、ふてくされるようにモチベーションは低下していった。「今思えば僕の逃げでしたね。事務所が合わなかったのであれば、よそでやることもできたと思います。それすらやらずに諦めていました。自分の弱さだと思いますし、元々の性格的に芸人は合っていなかったんでしょうね」。

“都落ち”のような形で、11年には沖縄へ拠点を移すことを決断した。芸人仕事がほぼない中で、屋良が選択したのは起業という決断だった。しかし、信頼していたスタッフに裏切られ、だまされる形で1000万円超の借金を背負うなど、どん底を経験した。そこからは周囲の助けを借りながら、一歩一歩前へと進む日々だった。

「沖縄に戻ってきて、いろいろな方に応援していただく中で、人はお互いに支え合って成り立っているんだなと思い知らされました。あの時は『自分だけが頑張ればいい』と思っていて、そういったありがたみを分かっていなかったんです」

 現在は出資して応援してくれる人たちの手を借りながら、事業を拡大していっている。過去には同様の経緯でだまされてしまったが、「何度もだまされていると、なんとなく分かるようになってきました」と笑う。

「今はだいぶ感度が高くなった感じがします。基本は疑いから入るようにはしています。芸人として生活していた時は、身の回りのことを周囲の人に任せてしまっていたので、無知だったんです。今、自分の手でさまざまなことをやるようになって、分かったことがとても多いので、沖縄に戻ってきたことは本当にプラスに働いています」

 まだまだ向上心にもあふれている。「自分が理想とする場所までの距離を客観的に見ると、今はまだかなり低い場所にいます。『何でできないんだ』と自分の弱さを突きつけられます。まだまだ実力が全然足りてないです」と冷静に自己分析。「スーパーマンにはなれないですよね」と笑う。

子どもたちへ抱く親心「僕より1日でも長く生きてくれればそれでいい」

 値札など気にせずに買い物ができていた20年前。現在では、スーパーの半額ずしに飛びつく日々をSNSで発信するなど、節約家な一面をのぞかせている。

「沖縄に戻ってきた当時に比べれば、今のほうが稼げるようにはなりました。ただ、高3、高1、中2、小6と4人の子どもがいます。成長した分、お金もかかるので全然貯まらないです。生活が裕福ではないので、できる部分は節約しています。おいしいものを食べることも大切ですが、それよりも本当に誰と食べるかが大事。家族と食べる半額ずしが1番おいしいなって最近気づくことができました。でも、家族には嫌がれているんですけどね(笑)」

 インスタグラムでは、高校生の娘のために手作りした弁当の写真を投稿するなど、家族愛もにじませている。「父親的にいえば、子どもたちにもうちょっと僕がテレビで活躍している姿を見てもらって、『パパすごいね』と言ってもらいたいなと思うことはありますね」。

 自身は東京での生活を経験したことで、芸人という想像すらしていなかった人生を送ることとなったが、子どもたちにも「絶対に1度は沖縄を出たほうがいい」と伝えている。

「客観的に自分の環境を見られるようになることが大切だと思っています。東京が良い、沖縄が良い、という意味ではなくて、当たり前だと思っていたことが、実は当たり前じゃないということを知ることが重要なんです」

「僕より1日でも長く生きてくれればそれでいい」。父親としての願いはただそれだけだ。

「親の思い通りになんてなるわけがないですからね。僕自身が親の期待を裏切るような生き方をしてしまったので、そういう前提で育てています。子どもがどのステージで、どういう景色を見るかは分かりません。どんな人と出会ったかによって変わると思いますし、まったく想像できないです」

 東京で送っていたきらびやかな生活とはかけ離れた生活を送っているが、「幸福度でいえば、圧倒的に今の方が高いです」と優しい笑顔を浮かべる。

「家族と一緒にいる時間が一番の癒やしの時間です」

 酸いも甘いも経験したことで、見つけることができた“幸せのカタチ”。1度はどん底を見た男が、愛する家族を原動力に前へ前へと進み続けている。

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