元RIZIN王者・斎藤裕、38歳で再びリング復帰の理由 空白の1年はフィットネスジム会員「格闘技の優先度低かった」
格闘技ファンが待ち望んでいた大みそか恒例のビッグイベント「Yogibo presents RIZIN師走の超強者祭り」(埼玉・さいたまスーパーアリーナ/ABEMA PPV ONLINE LIVEで全試合生中継)が目前に近づいてきた。RIZIN旗揚げから今年で10周年のメモリアル大会。ENCOUNTでは出場選手を直撃し、ファイターの10年前、そして今に迫る。初回は斎藤裕。

大みそかの舞台でYA-MANと対戦する
格闘技ファンが待ち望んでいた大みそか恒例のビッグイベント「Yogibo presents RIZIN師走の超強者祭り」(埼玉・さいたまスーパーアリーナ/ABEMA PPV ONLINE LIVEで全試合生中継)が目前に近づいてきた。RIZIN旗揚げから今年で10周年のメモリアル大会。ENCOUNTでは出場選手を直撃し、ファイターの10年前、そして今に迫る。初回は斎藤裕。(取材・文=島田将斗)
ファンの意表を突くような電撃的な復帰発表だった。最後の試合は昨年7月の久保優太戦。2R・KO負けで敗れたのちは、ラーメン事業で忙しく試合のことは頭にもなかった。
「年齢も30代後半であと10試合やるわけではないので『高ぶってもしょうがないしな』とは思っていました。18歳から始めて20年……格闘技人生を4周ぐらいした感覚があるんです。若い時は『俺には時間がない』ってせかせかしていたんですけど、いまは『散々試合もやってきたしな』って」
気持ちに変化が起きたのは今年7月。RIZIN榊原信行代表が「麺ZINさいとう」に来店し、初めて試合の話をした。
「お店に来てくれて、一緒に動画撮影した際に『10周年でさいたまSAが改修工事に入る。そこで良かったら』という話をされました。初めてそこで試合のことを考えました。そのときは相手も決まっていなかったけど自分としてもおぼろげに『やるなら大みそかかな』と」
ラーメン事業を優先させ、試合をせず、事業が落ち着いたときに「やります!」と応えても、年齢的にできない可能性もある。出店に協力してくれたRIZINに恩義も感じ「やるならここしかない」という頭になった。とはいえ、いきなりお店を抜けることはできない。試合に集中できるような店舗環境になるように教育や相談を進めていった。
リングに戻ってきた理由は店舗運営だけではない。YA-MANという対戦相手が心に火をつけた。プロMMAキャリアに大きな差があるが「戦績・経験以上に試合の強さを感じる」と評価していたことを明かす
「彼の試合は単純に面白い。どんな選手とやっているのを見ても、『いい選手だな』と胸が熱くなるんです。『この人とやったらいい試合になる』っていうのはずっと感じていました。消化試合にはならないですよね」
空白期間の格闘技は「他人事でしたよ(笑)」
熱い気持ちの一方で、空白だった1年はほとんど格闘技に触れてこなかった。「お店に立つ」が前提条件になったときにケガはできない。おのずとスパーリングはできなくなり、斎藤は地元のフィットネスクラブの一般会員になった。
「スポーツジム会員で体を動かしてはいました。とにかくお店を開いたこの1年はとにかく大事だと思っていたので、そこ(店舗運営)にコミットできるように。格闘技の優先順位は圧倒的に低かったです。筋トレをやって、走って、サウナ入って帰る。健康的な生活でした。ガシガシやっていたら、いまも体大きかったでしょうけど、バランスを取ってやっていましたね」
試合の見方もファンのような目線に変わった。カード発表会見と結果は確認するが、自分事として内容を見ることはなかった。
「他人事でしたよ(笑)。RIZINが売り出したい選手が出てきたなとか、ランキング制ではないですけど、この試合の勝った方があの選手とやるのかな? とか勝手に外から見ていた感じですね」
いまでこそ観客のように試合を見ることができるが、かつては誰よりもその熱狂と喧騒の当事者だった。激動の10年、そしてRIZIN参戦からの5年。最も記憶に残っている試合を問うと、斎藤は「やはり朝倉未来選手とやった最初のあたり」と即答した。
コロナ禍で思うようにキャリアが積めない選手が多い中でビッグマッチが続いた。その一方で、顔の見えない敵も現れた。
「朝倉選手と対峙(たいじ)して、各方面からいろいろ言われましたね(笑)。SNSが無法地帯な感じで、すごい心ない言葉を投げられることもありました。自分でも追いつかないくらいネットでいろんなものが拡散されて……。登場人物が増えて、今思うと特殊な状況でした」
会ったこともない知り合いも増えた。「こんなふうにやったほうがいい」「彼はこういう練習をしてる」といった雑音が増えるなかで身に着けたのが自分を信じる力だった。
「一気に言われても全部対応できねぇよって(笑)。言われたことが1回は頭に入ってくるんですけど、『実際にやるのは俺だしな』と。勝つために必要なことを自分の中で決めて、それを試合ギリギリまで頑張っていく、そういう強さが生まれました」
この10年でファイターとして人として成長した「求められるものが多いですから」
そんな波乱の時代を経て、今は経営者としての顔も持つ。RIZINが生まれた10年前は「強くなること」だけを求めた純粋な若者だった。当時の生活は都内の自宅とジムを往復する日々。「寝るためだけの家」でぜいたくもせず、ひたすらに格闘技と向き合った。
「練習して帰ってきて、休んでまた練習して。強くなるしかねえなっていう思いをずっと持っていました。食事、休養、『どうしたら強くなれるか』をずっと考えていました。試合が常にあって、ケガも少なくて。今思うと、いい青春ですよね」
修斗のベルトを巻き、RIZIN王者にもなった男は現在38歳。試合への見方は若いときと違う。
「キャリアを積んでくると、見え方とか感じ方は圧倒的に変わってきますよね。RIZINという舞台でタイトル戦、防衛戦、メイン、セミをやる選手って求められるものが多いですから。自然と第1試合、第2試合でやる選手たちよりも感じることとやらなければいけないことが多くなってくるわけです」
自分もプロとしてお客様が望むものに対して、いろんなことを考えるようになりました。若い時は『とにかく自分が強くなる』っていう思いが絶対必要。でもキャリアを重ねると、視野を広くして、求められる選手になることも大事になってくる。RIZINに来てから人として成長できたんじゃないかなって思います。いい経験させてもらったな」
キャリア終盤になるにつれて「引き際」の文字も散らつく。
「ケガで続けたくても続けられない選手もいるだろうし、自分で線を引ける選手って限られてくるのかなと思います。若い時は死んでもいいと思ってやるんですけど、だんだんそうではないことを自覚し始める。30歳手前の『人生どうする問題』で『辞めるなら早いほうが』って思いながらも、勝ったら辞められねぇしなって。スパッと辞められる人は特殊かもしれないです」
だからこそ会見では「魂とかいろいろなものをリングの上に置いていきたい」という言葉が出てきた。
「『次はないかもしれない』、それぐらいの気持ちでやらないと準備から中途半端になって、自分も納得できない試合をしてしまったら、それがずっと残るわけです。だったらどうなるか分からないけど、この1試合に全てをかける。そういう気持ちが大事かなと」
「YA-MANはそれができる相手じゃないかと」。再び修羅の道へ挑む斎藤の表情はラーメン店主からファイターになっていた。
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