16歳で「ひどい筋肉痛」→告げられた病名に「まさか自分が…」 失った右肩、絶望からの再起

長い人生、順風満帆に見える日々はいつ暗転するか分からないもの。それが青春の真っただ中で、未来への希望に満ちあふれた学生時代だったら……。高校生のある日、100万人に1人という難病に侵され、“皮一枚”を残して利き腕の切断を余儀なくされた男性に、絶望からの再起と10年後の現在を聞いた。

「結婚もしたい」 壮絶な過去について、明るい表情で話す宮澤さん【写真:ENCOUNT編集部】
「結婚もしたい」 壮絶な過去について、明るい表情で話す宮澤さん【写真:ENCOUNT編集部】

16歳の春、100万人に1~1.5人程度という難病の骨肉腫を発症

 長い人生、順風満帆に見える日々はいつ暗転するか分からないもの。それが青春の真っただ中で、未来への希望に満ちあふれた学生時代だったら……。高校生のある日、100万人に1人という難病に侵され、“皮一枚”を残して利き腕の切断を余儀なくされた男性に、絶望からの再起と10年後の現在を聞いた。(取材・文=佐藤佑輔)

 男性に出会ったのは、6月某日に行われたとあるメディア向けの企業交流会。参加各社が自社製品やサービスのPRを行う会だったが、「勤め先のことはいいので、自分の病気のことについてお話を聞いてくれませんか」と名刺を差し出されたのが印象的だった。ワイシャツの上から見た限りでは分からなかったが、「これ、右腕が上がらないんです。肩の骨もないんですよ。よければ触ってみます?」。壮絶な過去とは裏腹な屈託のない笑顔に興味を抱き、後日、勤務先という名古屋市内のクリニックを訪ねた。

 宮澤祐太さん、27歳。小学校でサッカーを始め、高校ではバスケ、陸上、ラグビーと各部の助っ人もこなすなど、スポーツ万能な青年だったという。そんな宮澤さんを病魔が襲ったのは、高校2年生の春、16歳のときのこと。右の肩から上腕部にかけてひどい筋肉痛のような痛みを感じ、いくつもの病院で検査を重ねた。

「3月くらいからずっと痛みが続いていて、夜に寝ていても汗だくで飛び起きるような感じでした。レントゲンを撮っても分からず、総合病院でCT、MRIで見ても分からない。もっと大きい大学病院を紹介され、7月になってようやく骨の中にできるがん、骨肉腫だと分かりました」

 成長期の子どもや10~20代の若者に多く発症する悪性腫瘍で、発生頻度は100万人に1~1.5人程度という難病。発覚後はすぐに入院の措置が取られ、8月に患部を切開し悪性腫瘍を除去する手術が行われた。9月から翌年の3月まで続いた抗がん剤治療は、想像を絶するものがあったという。

「髪の毛は抜けると覚悟していましたが、眉毛も脇も下の毛も、まつ毛以外は全部抜けた。吐き気と倦怠(けんたい)感と発熱がずっと続いて、1日10回以上は嘔吐(おうと)していました」。11月には右肩の皮膚のみを残して切断、骨・筋肉・関節をすべて除去し、代用として自身の鎖骨と亡くなったドナー登録者の遺骨を移植するという2度目の手術を受けた。「それまでは『まさか自分が……』という感じであまり実感がありませんでしたが、2度目の手術から目覚めた後はもう腕が上げられなくて、大好きなバスケも陸上も2度とできないと直感で分かった。それはやっぱりショックでしたね」

 ある日突然始まった長く苦しい闘病は、学生生活をも一変させた。急な入院となったため、周囲に事情を説明するタイミングがなく、掛け持ちしていた部活動は夏の大会直前に欠員を出すことに。それが直接の原因となったかは不明だが、「急に学校に来なくなった」という事実から、典型的ないじめの標的にもなったという。

「自分で言うのもなんですけど、もともと誰とでも仲良くなれて友達は多いタイプだったんです。それが退院後に手のひらを返したように、陰口を言われることが増えて……。抗がん剤治療で毛が抜けてガリガリだったので、よく知らない人からすれ違いざまに『ハゲ』とか『骨』とか、『学校くんな』『手帳持ち』みたいなことも言われました。手を出されることはなかったけど、他にも机の上にごみが置いてあったり、私物を隠されたり。

 病気になる前はなまじ勉強も運動もできる方だったので、自分でも調子に乗ってた部分があったのかもしれない。それまではいじめや意地悪なんてほとんどない、いい学校だと思っていたんですが……」

学生生活は一変…いじめのターゲットになり中退、引きこもりに

 3月に抗がん剤治療がひと段落すると、留年生という形で再び高校に通い始めたが、周囲の環境の変化になじめず、体力の低下もあって8月に中退。翌年の春まで部屋に閉じこもり、ふさぎ込む日々が続いた。絶望の淵から立ち直るきっかけとなったのは、子どものころから好きだった特撮ヒーローの存在だ。

「ずっとウルトラマンや仮面ライダーのDVDを見ていて、コスモス役の杉浦太陽さんの『信じれば夢はかなう』という言葉に勇気づけられていました。今からヒーローにはなれなくても、自分と同じような境遇の子たちに夢を伝えることはできるかもしれないと」

 半年間の充電期間を経て、定時制高校に再入学。「またなじめないんじゃないか……」。そんな不安をよそに、年齢が離れていていたり障がいがあっても態度を変えず、軽口をたたいてきたりイジってくれる心の置けないヤンチャな友人たちにも恵まれた。卒業後は名古屋の4年制大学に通い、地元の大手自動車関連企業に一般採用で入社。体力面で限界を感じて退職した後、今の勤務先である医療法人春陽会が中高生向けにがんの早期発見の啓発活動を行っていることを知り、自身の経験を伝えるまたとないチャンスになるのではと昨年2月に入社した。現在は広報部に所属、講演会のほかYouTubeやTikTokといったツールも使いながら、管理栄養や病気予防の発信を行っている。

 100万人に1人の難病を患うことは、不運なことのように感じられるが、前向きに捉えている部分もある。「やっぱり、病気になったことで人に寄り添えるようになったと思う。離れていく人は離れていったけど、逆に障がいを持っても寄り添ってくれる人がこんなにたくさんいるんだと気づけた。人間関係の取捨選択じゃないですけど、人のいいところがよりよく見えるようになったのは、よかったことだと思います」。

 一方で、障がい者特有の悩みも……。

「やっぱり、人間関係の難しさは普通の人よりもありますね。中には今の職場のように『できないことがあるからこそ、できることを率先してやってくれるよね』と、障がいを個性として捉えてくれる人もいますが、やっぱり気を遣わせてしまったり、腫れ物扱いされることもある。自分では障がいをイジるようなブラックジョークも好きで、そういう部分も含めて普通に接してもらえるとうれしいんですが、こればっかりは人による。『障がい者だから』ではなく、普通の人と同じように人となりを見て接してもらえるといいんですけどね」。当事者だからこその、忌憚(きたん)ない意見を発信している。

「食べたいものを食べて、ゲームをしたりYouTubeをしたり、趣味の特撮や美容にお金を使ったりと、やりたいことをやって生きています。今年中には実家を出て、念願の一人暮らしもしようと思ってる。結婚もしたいですね、全然モテないですけど(笑)。再発や転移の可能性は残ってますが、死んだら死んだで仕方ない。起こってもないことを不安に思っていても始まらないですから」

 悲壮感をみじんも感じさせない、どこか吹っ切れたような表情で、宮澤さんはそう結んだ。

次のページへ (2/2) 【写真】骨・筋肉・関節を除去し、自身の鎖骨と亡くなったドナー登録者の遺骨を移植した患部
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