平松伸二氏、19歳で週刊少年ジャンプ連載も…休みナシの過酷日々、編集からの冷酷命令「できないとは言えない」
1975年、原作:武論尊、作画:平松伸二のタッグによる『ドーベルマン刑事』の連載がスタートした。当時、平松先生はまだ19歳。若くして週刊少年ジャンプの連載作家、という華々しいストーリーに思えるが、先生は“恐ろしくて仕方なかった”と話す。しかしその経験は、今年70歳になる先生が今も描く“外道”との出会いになった。

「武論尊さんが僕の扉を開けてくれた」
1975年、原作:武論尊、作画:平松伸二のタッグによる『ドーベルマン刑事』の連載がスタートした。当時、平松先生はまだ19歳。若くして週刊少年ジャンプの連載作家、という華々しいストーリーに思えるが、先生は“恐ろしくて仕方なかった”と話す。しかしその経験は、今年70歳になる先生が今も描く“外道”との出会いになった。(取材・文=関口大起)
平松先生は高校卒業後に上京。『アストロ球団』の中島徳博先生のもとでヘルプアシスタントをしていた。
そんな中、中島先生が体調を崩してしまう。そこで白羽の矢が当たったのが平松先生だ。中島先生が構想したストーリーをもとに、平松先生がネームから担当した読切作品『球道武蔵』。本作を経て、武論尊先生とのタッグによる『ドーベルマン刑事』の企画が立ち上がった。先生の初連載作にして、代表作となる作品である。
「読切の話が来たときも、連載の作画のオファーが来たときも、本当に怖かった。漫画家の仕事の過酷さや自分の未熟さを、中島先生の現場で見て痛感していましたから。まあでも、編集者が恐ろしくて泣き言を言える環境でもありませんでした(笑)」
こう語る平松先生だが、『ドーベルマン刑事』は第1話で読者アンケートで1位を獲得する。以降、基本的には前後編のスタイルで1話20ページを描き続け、読者の心をつかんでいった。
しかし、編集部ではさらなる飛躍を目指す施策が思案された。アンケートで1位を獲得した第1話にならい、1話30ページの読切スタイルに変更しようというのだ。
「これも『できないです』とは言えない雰囲気です(笑)。僕もまだ若くて、言い返す根性がなかったというのもありますけどね。でも、これ以上ページ数が少ないと読切として成立しないのも事実でした」
原作を武論尊先生から受け取り、それを元に編集担当と打ち合わせ、ネームを1日で仕上げる。そして、その後の5~6日を作画時間にあてた。ほぼ休みなどない、超過酷なスケジュールだ。
『ブラックエンジェルズ』で再び“外道”を描く
『ドーベルマン刑事』の連載終了後、平松先生は、プロレスを題材にしたオリジナル漫画『リッキー台風』を執筆する。
「当時の編集に『原作付きで描いている限り漫画家とは認めない』なんて言われたこともあって、次はオリジナルで描くと決めていました」
平松先生の自伝的漫画『そして僕は外道マンになる』でも描かれた編集者とのエピソードだが、改めて聞くと衝撃的な言葉だ。それに対する反骨精神もあってか、『リッキー台風』は連載期間が約1年半、コミックス全9巻を刊行するヒット作となる。
そもそも、地元岡山で漫画家を志した中学・高校時代の平松先生は、ずっと「スポ根」をテーマに漫画を描いていた。影響を受けたという作品も、『巨人の星』や『あしたのジョー』といったスポ根漫画だという。
だからこそ、オリジナル作の初連載は趣味のプロレスをテーマにした。しかし、『リッキー台風』の連載終了後に平松先生が描いたのは、次なる代表作『ブラック・エンジェルズ』。再び勧善懲悪をテーマとした。その理由を平松先生に聞くと、外道を成敗する物語が“体質”に合っていたと話す。
「『ドーベルマン刑事』の作画をしていていると、悪役に対して“こいつは許せないな”って気持ちが湧いてくるんです。ラストでそいつをやっつけると、自分の中に燃えるものがある。武論尊さんの原作が、僕自身が気づいていなかった扉を開けてくれたのかもしれません」
勧善懲悪モノを描くにあたり参考にしたのは、当時テレビシリーズが人気だった『必殺仕事人』。『ドーベルマン刑事』では体制側の勧善懲悪を描いたが、次なる作品では反体制側の勧善懲悪を描こうと考えた。
平松先生は、映画『ダーティハリー』がはやっていたからこそ、同じく勧善懲悪をテーマにした『ドーベルマン刑事』の企画があり、自身がそれと出会ったのは偶然だと話す。
しかしその巡り合わせによって、平松先生は「外道を裁く」という自身の“王道”に出会ったのだ。
