横浜文体が58年の歴史に終止符 「落日の闘魂」ハネ返した猪木【連載vol.4】
神奈川・横浜文化体育館が9月6日、1962年5月のオープン以来、58年間の歴史を閉じる。プロレスの聖地としても知られているが、プロレスの大会は8月29日、30日の大日本プロレス2連戦が最後となる。
金曜午後8時更新「柴田惣一のプロレスワンダーランド」
神奈川・横浜文化体育館が9月6日、1962年5月のオープン以来、58年間の歴史を閉じる。プロレスの聖地としても知られているが、プロレスの大会は8月29日、30日の大日本プロレス2連戦が最後となる。
関内駅南口から徒歩5分。交通も便利で、横浜市民にとっては、横浜アリーナができるまでは成人式の場であった。アリーナでさまざまなスポーツを体験したり、北側の舞台を使ってダンスなどの発表会も催されてきた。浜っ子は一度は足を運んだことがあるだろう。
昔ながらの格式ある立派な体育館で、改修前の東京・大田区体育館とともに、好きな体育館の上位を占める人気会場。今では「文体」という通称が一般的だが、かつては「横文」と呼ばれていた。後楽園ホールも、平成以降は「ホール」、昭和世代は「後楽園」と口にする人が多い。その言い方でいつ頃からのファンか分かったりする。
また、長期間、使用された座席はレトロな趣があったが、キーキーきしんだ音がしたのも事実。警視庁鑑識課に勤める友人が訪れた際、何度も上げ下げし、いろいろな角度からチェックし、座席の下を確認していた。きしむのは古いからなのだが、職業柄、何かあるのではと確認してしまったのだろう。
思い出話が止まらないプロレスファン。それぞれの胸にベストバウトがある。
オールドファンは62年、日本プロレスのワールドリーグ戦で力道山とフレッド・ブラッシーが血だるまの激闘が忘れられないという。
いまだ語り草なのは88年8月8日、灼熱の中、アントニオ猪木と藤波辰爾の師弟が、60分戦い抜いたIWGP戦。当時、45歳になっていた猪木は「落日の闘魂」などとささやかれ、挑戦者という立場に甘んじていた。
この半月ほど前には、長州力にフォール負けを喫しており「これで藤波に勝てなかったら、辞めるのでは」という声があちこちから聞こえていた。
果たして、猪木はいい意味で裏切ってくれた。全盛期にあった藤波と「ストロングスタイルの極み」ともいうべき、手に汗握る攻防で60分フルタイムを戦い抜いた。
猪木を長州が、藤波を越中詩郎が肩車してファンの声援に応えるシーンは、日本プロレス史でも欠かせない名場面だ。
藤波が後に「変な話だけど、あの後しばらく、尿意はあっても、おしっこが出なかった。体中の水分を使い果たしたんだよ。後にも先にも、あんなことはあの時だけ」と振り返っていた。
「甦る闘魂」猪木だったが、1年後には政界に進出し、闘うフィールドをより広げていく。この一戦でレスラー・猪木に一区切りつけることができた節目の闘いだったのではないか。