東京ドームを賛否の渦に巻き込んだ伝説の高田―ミルコ戦とは何だったのか 「RIZIN男祭り」直前に振り返る
「RIZIN男祭り」(5月4日、東京ドーム)が、あとわずかに迫ってきた。今回は目玉カードに朝倉未来の復帰戦として、鈴木千裕戦が発表されているが、東京ドームの歴史を紐解いていくと、過去には賛否の渦を巻き起こした一騎打ちが存在した。

今のユーザーは「歴史」に重きを置いてない傾向がある
「RIZIN男祭り」(5月4日、東京ドーム)が、あとわずかに迫ってきた。今回は目玉カードに朝倉未来の復帰戦として、鈴木千裕戦が発表されているが、東京ドームの歴史を紐解いていくと、過去には賛否の渦を巻き起こした一騎打ちが存在した。(文=“Show”大谷泰顕)
「RIZIN男祭り」で実施される対戦カードのなかで、古くからのファンが注目しているものに、“孤高の天才”田村潔司の弟子・中村大介と、“UFC殿堂入りした唯一の日本人”桜庭和志の長男・大世による、“Uの末裔”による一騎打ちがある。聞くところによると、今の若いファンには興味の対象外とされるカード、というのがまた逆に興味深い。
それだけ、今のユーザーが「歴史」に重きを置いていない傾向があるのは寂しい話ではあるものの、それだけRIZINが独自性を保っているのであれば、それはそれでひとつの方法論といえる気もする。
東京ドームの歴史を振り返ると、1988年3月17日の落成式以来、21日にはマイク・タイソンVSトニー・タッブスによる、プロボクシング統一世界ヘビー級タイトル戦が行われ、それ以降、幾多の激闘が東京ドームのリング上を彩ってきた。
95年10月9日には、新日本プロレスとUWFインターナショナルが全面対抗戦を行い、2002年にボブ・サップ人気が絶頂の頃には、K-1が7万人越えの観客動員記録を樹立。アントニオ猪木の引退興行(98年4月4日)も行われ、7万人の観客を動員した。どれもが未だに語り継がれる闘いだったと記憶している。
だが、個人的な衝撃度としては、これらと同等もしくはその上を行く一戦が存在している。
それこそが“アイ・アム・プロレスラー”高田延彦がミルコ・クロコップとPRIDEルール(MMA)で闘った、伝説の異次元対決になる。
正直に言えば、あれ以上のいびつな試合を観たことがない。あれから20年以上の月日が経ったが、未だにぶっちぎりで異質すぎる、いい意味で違和感だらけの一戦だった。
時は2001年11月3日のこと。試合は3分3ラウンド(最大延長2ラウンド)で実施され、結果は5ラウンド闘いきって、規定によりドロー。
高田は試合中、何度もタックルを切られ、ミルコの打撃を食らうまいと自ら横になる。その数は19回もあった、とされる。
もちろん、なぜ高田がその戦法を取ったのかには理由がある。それを話す前に、当時のミルコの状況を説明する。
当時のミルコは、1999年のK-1グランプリでは準優勝の実績こそあったものの、その年は早々に予選で敗れていた。

「あれ(MMA)はプロレスとは別もの」
折しも、その年の大みそ日には「INOKI BOM-BA-YE 2001」をさいたまスーパーアリーナで開催し、TBSがこれを中継することが計画されていた。もちろん、大みそかの地上波のゴールデンタイムに格闘技の試合を中継するのは史上初の試みである。
そこでK-1側は、ミルコに「INOKI BOM-BA-YE 2001」で採用されるMMAルールへの挑戦を打診し、大みそかの大一番を前に、8月には“猪木イズム最後の継承者”と呼ばれた藤田和之戦が組まれた。
その試合でミルコは、藤田のタックルに合わせてヒザ蹴り一閃。藤田の顔面からおびただしい出血が確認され、レフェリーストップの裁定が下った。
これによりミルコは、グレイシー一族以来となる日本マット界のヒール的存在に躍り出ることになった。これに対し、結果的に名乗りを上げたのが高田だった。いや、正確には高田しかいなかったのだ。
当時の高田は、東京ドームでヒクソン・グレイシーに連敗(97年&98年の10月11日)し、「高速タップ男」と揶揄されていた。師匠であるアントニオ猪木からは「一番弱いヤツが出て行った」と苦言を呈され、プロレスの持つ「最強神話」を地に貶(おとし)めた「A級戦犯」と呼ぶ声もあった。
だからこそ、高田は「藤田のカタキを取りに、新日本プロレスの誰かが出て来い」といったニュアンスの発言を口にしていたが、プロレス界からはそれに呼応する選手は一切出てこなかった(※大みそかの「INOKI BOM-BA-YE 2001」には新日本から“Mr.IWGP”永田裕志がミルコ迎撃に参戦)。
要は、「あれ(MMA)はプロレスとは別もの」という認識だったからだ。
もちろんその理屈は高田も理解していた。それでも高田からすれば、猪木が創設した「キング・オブ・スポーツ」を掲げる新日本はそれでいいのか、との思いがあった。
なぜなら猪木は「プロレスは最強の格闘技」を唱え、時のプロボクシング世界ヘビー級王者だった、モハメッド・アリとも「格闘技世界一決定戦」(1976年6月26日、日本武道館)を闘い、「格闘ロマン」の道を突き進んでいたからだ。
結局、誰も行かないなら、と高田がミルコ戦に踏み出すことになったが、前述通り、結果的には本当にいびつな、違和感満載の試合になった。
高田戦のミルコは、K-1ファイターがようやくMMAファイターとしての一歩を踏み出したばかり。要は慣れていなかったし、まったく余裕がなかった。いわば、棘(とげ)が尖りまくっていた。
ミルコの対日本人戦績は15戦して14勝1分
一方の高田はプロレスラーとして、ヒクソン戦で犯したとされる間違いを繰り返すまいとの意識が強かった。
しかも試合序盤で右足踵骨を骨折したため、リングに腰を降ろしてグラウンドに誘う作戦に出たものの、ミルコがこれを拒否し続けたことで、いわゆる“猪木アリ”状態のまま、試合は終了しドローとなった。
結果、高田はミルコに負けなかった。
ちなみにミルコは現役時代、対日本人は15戦して14勝1分。つまり、藤田や桜庭、武蔵や石井慧ですら黒星を喫したミルコに、高田は唯一、負けなかったのだ。
当然のことながら、この見方を提示すると、未だにミルコ戦で高田が取った戦法を揶揄する人たちがそれなりにいることは知っている。
それでもあの試合で高田の取った戦法は決して間違ってはいなかった、という見方を少なくとも自分は支持したい。
高田の師匠である猪木が口にした言葉に、「時は全ての裁判官」というものがある。
猪木からすれば「世紀の凡戦」と呼ばれたアリ戦の評価が、それから17年以上の時を経た段階でK-1やUFCが立ち上がり、さらには97年にPRIDEが立ち上がって以降、まったく逆に変わってしまったことを含めた物言いだったに違いない。
21世紀に入り、すでに四半世紀が過ぎようとしている今、日本では「プロレスラー」と「格闘家」は別のものとされている。米国では世界最大のプロレス団体であるWWEと、究極の格闘技UFCは同じ会社が運営し、地続きの関係を構築しているにもかかわらず、日本ではその域に到達する気配はない。
それでも、あくまで個人的な印象でいえば、高田VSミルコ戦に感じた無類の緊張感を越えるものを未だに感じたことはない。それは、那須川天心VS武尊戦(22年6月19日、東京ドーム)の緊張感とは、まったく異質のものだった。
もちろん「RIZIN男祭り」の朝倉VS鈴木戦を楽しみにしている観客や視聴者からすれば、20年以上前の試合のことなんて、もはやどうでもいい出来事になるのかもしれない。
それどころか視界に入る余地のない予備知識かもしれないが、だからこそ、今こそあの高田VSミルコ戦とはなんだったのか。それを考えることこそ、もしかしたら「RIZIN男祭り」が導き出すだろう最適解に近づける可能性があるのでは、と考える。
(一部敬称略)
