倍賞美津子さんに「バリカンで坊主に」 アントニオ猪木の弟が明かす秘蔵話「兄貴に抑えられて…」
猪木元気工場の猪木啓介新社長が、兄・アントニオ猪木の誕生日である2月20日に『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(講談社)を上梓した。前評判もよく、発売日には重版も決定したという。今回は啓介社長に、兄・A猪木に関する秘蔵話を聞いてみた。

新宿伊勢丹前襲撃事件の記憶
猪木元気工場の猪木啓介新社長が、兄・アントニオ猪木の誕生日である2月20日に『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(講談社)を上梓した。前評判もよく、発売日には重版も決定したという。今回は啓介社長に、兄・A猪木に関する秘蔵話を聞いてみた。(取材・文=“Show”大谷泰顕)
23日から5月5日まで、埼玉・川越の丸広百貨店で「“燃える闘魂”アントニオ猪木展~GOLDENWEEK FIGHT SERIES~」が開催されている。
もちろん2022年10月1日に亡くなったA猪木を偲ぶ展示会だが、日本全国で随時開催され、好評を博している。
さて、A猪木のプロレスラーとしての全盛期はいつになるのか。人によってその見解はまちまちだとは思うが、おそらくA猪木が女優・倍賞美津子さんと婚姻関係を結んでいたころ、と答える人が最も多いのは間違いないだろう。
「新日本プロレスを日本一のプロレス団体にできたのも倍賞さんの献身があったからだし、猪木家との付き合いも深かった。何より、兄貴自身が本当に美津子さんのことを愛していたし、(愛娘の)寛子さんのことは『世界でいちばん怖い』と常々語っていた。もちろん、それだけかわいがっているということである」
A猪木の実弟である猪木啓介社長の著書にはそう書かれているが、A猪木と美津子さんが「1億円挙式」と呼ばれた結婚披露宴を挙げたのは、1971年11月2日、京王プラザホテルでのこと。翌年3月には新日本プロレスを旗揚げ、モハメッド・アリ戦(1976年6月26日、日本武道館)を含む「格闘技世界一決定戦」が行われ、3年越しと言われたIWGP構想を実現した。
正式に離婚したのはA猪木がマサ斉藤との巌流島決戦(1987年10月4日)の直前になるため、約16年間の結婚生活だったものの、A猪木が最も勢いに乗っていた時期は、常に美津子さんの存在があった、ということになる。
これに関して啓介社長は、「兄貴がどうして離婚をしたのかは、その頃にブラジルに行ってしまっていたから分からない」としながら話を続けた。
「実際、僕としては(美津子さんは)一番身近な存在の人だったかな。メシを食わしてもらったり、よく遊びに行って、いろいろと面倒を見てもらったりしましたからね。だから、倍賞美津子さんそのものは身近に感じているお姉さんっていう感じでしたよ」
ちなみに、1973年11月5日にA猪木夫妻が新宿の伊勢丹で買い物を終えて店の前に出たところ、タイガー・ジェットシンらがA猪木を襲撃した事件があった。この時は元はと言えば、弟である啓介社長の結婚祝いをA猪木夫妻が買いに行った際に起こった。
「あの時は結婚祝いを買ってあげるからと喜んで行ってたんだけどね。あんなことになるなんて、ホントに知らないし、もちろん倍賞美津子さんも知らないし」

サザンの新アルバムに収録された「ミツコとカンジ」
たしかに、事前にメディアに情報が流れていれば、その際の写真が残っているはずだが、そんな写真は一枚もない。それでも新日本は、警察関係者から結構キツいお叱りを受けたと伝わっているが、すべてをリング上に持ち込んだA猪木はさすがとしか言いようがない。
啓介社長から直接聞いた、美津子さんに関する話は他にもある。
「旗揚げ当初の新日本の宣伝カーの吹き込み(告知アナウンス)があったでしょ。『何月何日、どこどこ体育館』っていうの。あれは全部(美津子さんに)話をしてもらって。その頃はエンドレステープがないから、15分の一番短い(カセット)テープを録音して、(片面)15分、もう片面15分を録音して、計30分、ずっとクルマでそれを流して、宣伝して歩いたっていう感じだったね」
これに関して著書では「歌手でもある美津子さんは音響技術にも明るく、バックミュージックを流して告知を読み上げるという『新技』を編み出し、これが大変好評だった」とある。
また、啓介社長は著書には載っていない話として、こんな話も聞かせてくれた。
「そのほかに1回は俺がいい加減なことをやって、兄貴に抑えられて。倍賞にバリカンでバーッと坊主にさせられたこともあったけどね。まあ、そういうのは全然、ホントに恨むこともないし」
そう言って当時を懐かしみながら啓介社長はニコリと笑顔を見せた。
最近、サザンオールスターズの桑田佳祐がリリースしたアルバム「THANK YOU SO MUCH」には12曲目に「ミツコとカンジ」なるタイトルの曲が収録されている。
「まだ魂のゴングが鳴り止まぬ」「チャンピオン・ベルト」などとあるように、同曲はプロレスファンで知られる桑田佳祐が、本名・猪木寛至のA猪木と、妻だった美津子さんのビッグカップルをオマージュしたものだが、それだけ古くからの猪木ファンにとっては記憶に刻まれた二人なのだ。
さらに言えば、啓介社長の著書には美津子さんに関するこんな記述もある。
「葬儀が終わった後、アメリカに戻る前の寛子さんが立ち寄った場所がある。実の母である倍賞美津子さんの自宅だ。美津子さんには、兄貴が亡くなったあとに、(息を引き取った)白金台のマンションを弔問し、兄貴のなきがらの前で手を合わせてくれた。
寛子さんは、火葬されお骨になった兄貴を美津子さんに見せた。すると、美津子さんはこう語りかけたという。
「やっぱり私のもとに帰ってきたのね、アントン……」
何度読んでも、何度聞いても、この話以上に両者の深い深い結びつきを感じられるものはない。
(一部敬称略)
