「きみは天才か?」映画監督・河合義隆が初対面で放った言葉「天才とやらないと、僕の才能が泣くんだよね」
歌舞伎俳優の中村勘九郎、中村七之助、脚本家の横内謙介氏が22日、東京・中央区の歌舞伎座で、松竹創業百三十周年『猿若祭二月大歌舞伎(さるわかさいにがつおおかぶき)』昼の部『きらら浮世伝 版元蔦屋重三郎魁(さきがけ)申し候』の取材会に出席。横内氏が、37年前の初演時に演出を務めた映画監督・河合義隆氏の強烈エピソードを語った。
ニコニコ笑いながら一言のセリフを100回言わせる「かなり風変りないじめみたい」
歌舞伎俳優の中村勘九郎、中村七之助、脚本家の横内謙介氏が22日、東京・中央区の歌舞伎座で、松竹創業百三十周年『猿若祭二月大歌舞伎(さるわかさいにがつおおかぶき)』昼の部『きらら浮世伝 版元蔦屋重三郎魁(さきがけ)申し候』の取材会に出席。横内氏が、37年前の初演時に演出を務めた映画監督・河合義隆氏の強烈エピソードを語った。
『きらら浮世伝』は、1987年に横内氏が舞台作品として書き上げ、勘九郎と七之助の父・十八代目中村勘三郎さんが五代目勘九郎だった1988年に、銀座セゾン劇場で舞台作品として上演した演目。江戸時代に貸本屋商売を営みながら、喜多川歌麿、葛飾北斎、山東京伝、滝沢馬琴、恋川春町、大田南畝ら浮世絵師、戯作者、狂歌師たちの才能を発掘し、商いを広げていった“蔦重”こと蔦屋重三郎の物語。2025年のNHK大河ドラマでは、蔦重を題材とした『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』が放送されている。
1988年の『きらら浮世伝』で演出を務めたのが映画監督の河合氏。横内氏は「37年前に、当時できたばかりのセゾン劇場で、(江戸時代の)寛政(の改革)期の青春群像劇を作りたいんだと、当時のプロデューサーから言われました。脚本担当ということで参加したのが始まりです」と参加のきっかけを振り返り、「その時に、『新しい劇場なので新しいことをやる』ということで、演出家が河合さんになりました」と語った。「河合さんはもともとテレビのディレクターで、一番のヒット作が『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』でした。全部ビートルズの曲で坂本龍馬をやって、武田鉄矢さんが坂本龍馬を演じてかなり話題となっていました」と当時を懐古した。
しかし河合氏との初対面は強烈だったという。当時26歳の横内氏は、自身の劇団を立ち上げて6~7年目の駆け出し。「人とお芝居をやるのが全く初めてだったので、どんな具合にプロデュース公演ができるか、何も知らずに参加した」という。
「河合さんがぶっ飛んだ方で、最初に下北沢の居酒屋で呼ばれてお会いした時に、僕の目をみるなり『きみは天才か?』と聞くんです。河合さんは当時40代。『きみは天才か?』と聞かれて、26歳で自分の劇団をやっていましたけど、『さあどうでしょう』と答えたら、『じゃあ帰って』と。『僕は天才とやらないと、僕の才能が泣くんだよね』と」
初対面で「天才でなければ組まない」と突きつけられた横内氏は、『きらら浮世伝』を共に作り上げていくことに。しかし「一事が万事その調子で。当時、中村浩太郎さん(中村扇雀)も出演されていて、最近出会った時に当時を懐かしがっていましたが、浩太郎さんも「もう無理だ。俺はクビになる」と言っていました」と明かした。「河合さんは、一言のセリフを100回くらいさせる。1000本ノックを本気でやる。激烈に怒鳴ったりするタイプではなく、ニコニコ笑いながら『はいもう1回、もう1回』と。かなり風変りないじめみたいだった(笑)」と、河合氏の強烈なキャラクターを振り返った。
「台本を作る時も、具体的なことは何も言われず、『俺の心に赤い炎を燃やさせろ』と。『どうやったらいいんですか』と聞いても、『それはお前を考えろ』と。また、河合さんは映画を作るにあたり膨大な資料をお持ちでしたが、『これは君には見せない。自分で探さないと身にならないから』と見せてくれない。3月の上演に向けて、夏頃から自分で図書館に行かなきゃいけなかった」と、舞台を作り上げるまでにスパルタで鍛えられたという。
「ただ、勘三郎さんがこの監督にすごく心酔していらして。この人が『変わった人だ』と分かっていながら、河合さんが作る芝居に対してその熱さや情熱をくみ取っていたと思います」と振り返り、「みんなも戸惑う現場だったし、本作りも大変だったけど、勘三郎さんが先頭に立って無理難題に対して全て答えていっていた」と懐かしんだ。